2016年12月20日火曜日

目的を手段化することにより取り組みやすくなる

観念的、思い付き的感想ですから、後で役立つメモとなるか、スカとなるかは不明ですが、とりあえずメモしておきます。

生活で各種大小の目的(したいこと)が生まれます。

その目的(したいこと)の前に幸福否定現象が立ちはだかり、自分の能力の無さ、意気地なさなどを思い知らされます。

このような時、その目的(したいこと)が実はより高次の目的達成のための手段、道具であると認識すると、その高次の目的達成に対して幸福否定現象が立ちはだかるように変化するようになるのではないだろうかという仮説です。

高次の目的を達成するための一つの手段、道具になり下がった最初の目的は、自分にとっての意義が減少し、幸福否定現象の発生が弱まるような気がします。

つまり、幸福否定現象を見かけ上回避するために策として、幸福否定現象に悩む目的(したいこと)を手段化、道具化するような高次の目的を構築すればよいということになります。

一般例で考えると例えば次のような状況を想定することができます。

1 目的が手段化、道具化していない場合

職業や生活上で、ある重要レポートを作成する状況になった時を想定します。

そのレポート作成が社会的に見て、自分にとって大切であり、当面乗り越えるべき課題であると考える事になったとします。

一方、その期限は先であり、他にも取り組むべき作業・業務は沢山ありますから、そのレポート作成になかなか手が付きません。

仮に時間がうまれても、そのレポート作成をする気になりません。(幸福否定現象発生です。)

そうこうしているうちに締め切り直前になり、前日徹夜でレポートを仕上げることになります。

仮に、レポートの質が合格点に達したとしても、最良のものに仕上げることは困難です。

2 目的を手段化、道具化した場合

重要レポート作成を次のような「真の目的」「高次の目的」達成の手段であると考えたとします。

例1 中長期的な観点から自分の地位向上(立身出世)を目的と考え、重要レポート作成をそのための能力誇示の一例として組織に示す。

例2 属する組織とは別に自分が独自に(密かに)行う個人研究の一環にその重要レポート作成を位置づける。

例3 …

要するに、自分の目的、興味、したいことは地位向上であり、あるいは独自研究であり、あるいは…であった時、重要レポート作成はそれらのより大切な目的の下に隠れてしまいます。

重要レポート作成に自分の意識焦点が全面的に当たらない状況が生まれます。

そのような状況では、重要レポート作成は順調に進む場合が普通ではないかと考えます。

したいけれどもできない状況が発生し、悶々と苦しむような状況は発生しないと考えます。

なお、「真の目的」「高次の目的」である地位向上とか独自研究とか…とかはその領域で形を変えて幸福否定現象が発生することになるのだと考えます。

風景


2016年12月18日日曜日

感情の演技記事に関する感想

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)の中の「感情の演技」説明を参考に、自分なりに感情の演技あるいはそれに類似する活動を実践してみて、次の記事で報告しました。

2016.12.14記事「抵抗と感情の演技を活用して得た活動改善の萌芽 上
2016.12.15記事「抵抗と感情の演技を活用して得た活動改善の萌芽 下

この記事を書いた前後に次のような感想をもちましたので、メモしておきます。

1 コンテンツとしての「感情の演技」記述情報しか学習できていない

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)及びそれ以外の専門書(Kindle版笠原敏雄著「幸福否定の構造」など)を含めて「感情の演技」記述は、コンテンツとして書かれています。

著者が自分自身を対象に「感情の演技」を実践して、その様子や結果を記述したものは一切ありません。

あるいは「感情の演技」を実践したクライアントが直接語った体験的な様子や結果は一切ありません。

学習できたのは、著者の研究結果としての「感情の演技」であり、コンテンツとしてまとめられたものです。

研究対象としての「幸福否定」「感情の演技」ではなく、著者自身の実践の様子が是非とも知りたいところです。

著者の心理療法指導の実践ではなく、著者自身の生活における「感情の演技」の様子を知りたいところです。

「感情の演技」でご自身の生活改善がどのように進んでいるのか知りたいと思う気持ちが生まれます。

あるいは著者以外の人が直接記述する「感情の演技」体験や結果を知りたいところです。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)を読んだ人はおそらく大半の人がそのような感想を持つと思います。

「幸福否定」理論や「感情の演技」が科学の在り方を変えるような原理的意義を有していると考えるだけに、コンテンツを知るだけでは物足りません。

なお、もし機会があれば、笠原敏雄先生に、先生自身が「締め切り間際にならないと仕事のエンジンがかからない」という幸福否定現象を感情の演技でどのように克服できたのか、その様子を聞きたいと思っています。

2 自分の心の内部をさらけ出すことに対する違和感

感情の演技を実践するということは心の弱点を知り、その弱点を補強するということです。

自分の肉体や健康、あるいは知性(知識、思考能力等)について、自分の弱点を知り、それを補強する様子を情報発信することを想像すると、それにはある限界があると考えます。

社会で生活していく上で、肉体、健康、知性における自らの弱点を無制限に記述することには危険が伴うように感じます。

心の弱点を自ら暴露することには、肉体、健康、知性以上に危険が伴うような印象を持ちます。

今回のブログ記事内容は趣味活動における幸福否定現象と感情の演技であり、「実生活」(職業とか家庭とかの生活)から離れたテーマであるので、思い切って記事にしました。

しかし「実生活」に関連したテーマになると、仮に秘匿したいような特段の問題が無いにしても、それを記述してブログ記事にすることははばかります。

幸福否定現象とか感情の演技について「実生活」に関連したテーマで記事を書くことはプライバシー保持の観点から困難であると感じました。

この感想は、1における直接情報(非コンテンツ情報)欠如と通底しているものと考えます。

風景



2016年12月16日金曜日

感情の演技を効果的に行なうコツについて

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)の中に「感情の演技を効果的に行なうコツについて」という小見出しの文章があります。

そこには感情の演技を行うコツとして次のような記述があり、走高跳び選手の練習のようにいつまでたっても跳べない高さの練習をする必要性が書かれています。

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感情の演技を効果的に行なうコツについて

感情の演技を効果的に行なうには、コツがあります。

それは、感情を作るのがなるべく難しくなるような条件を設定するということです。

一般的なコツは、目標とすることをできやすくするための工夫という意味ですが、感情の演技の場合には、抵抗が起こりやすくなるように、なるべく難しい条件を選んで行なうほうが効果的なのです。

それは、感情を作ろうとする努力を通じて、幸福に対する抵抗に直面させることこそが、治療に直結するからです。

棒高跳びを例にとって説明すると、バーを低くすれば簡単に挑べますが、それでは実力は伸びません。

実力を伸ばすためには、バーを簡単には跳べない高さに設定する必要があるのです。

それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。

具体的にどのようにするかについては、次項で説明します。

実際に素直な感情を作るのは非常に難しく、わずか2分であっても、最初は集中すら難しいかもしれません。

何度か繰り返すと、集中はある程度できるようになりますが、それでも感情を作るのは難しく、先に述べたように、むりやり作ろうとすると、あくび、眠気、身体的変化という3種類の反応のどれかが出るようになります。

そうした反応を押して、むりやり感情を作る努力を重ねることが、そのまま治療につながるのです。

そこが自己暗示と全く違うところです。

感情ができなければ治療に結びつかないのではなく、感情ができなくても、感情を作る努力を重ねてゆけば、自然に好転に向かうということです。

目的は、感情を作ること自体にあるのではなく、抵抗に直面することにあるからです。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)から引用
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感情の演技を実践してみて(2016.12.15記事「抵抗と感情の演技を活用して得た活動改善の萌芽 下」この記述には違和感を感じます。

著者の勘違いが混入しているようにおもいますので、メモしておきます。

著者の勘違いではなく、もし自分の認識力の虚弱性ならば、それが判ればそれで大変うれしいことです。

著者は棒高跳びの例で「実力を伸ばすためには、バーを簡単には跳べない高さに設定する必要があるのです。それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。」としています。

揚げ足取り的ですが、「簡単には跳べない高さを設定して、それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。」はあり得ないと考えます。絶対にありません。

世界の全ての競技者が「簡単には跳べない高さを設定して、それが跳べたら、バーををさらに高くする」のです。

まだ1回も跳べないのに、それよりバーの高さをどんどん上げるという練習法があるとは聞いたことがありません。

肉体にしても、知性にしても、心にしても合理性を欠く練習法です。

私は、感情の演技を実践してみて、うれしさの感情を味わうことが極めて重要であると実感しました。

著者が説明する感情の演技では、感情そのものを味わうことなく、やみくもにその感情を味わう努力だけするという記述が、どこか「変」です。

著者が指導している感情の演技では、被験者は実際は、感情を味わうレベルが一歩一歩積み重なっているに違いありません。

感情を味わうその味が濃くなっていると想像します。

感情を味わうことなく、感情を味わう努力だけが必要だという記述にはどこか勘違いがあるに違いないと直観します。

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2016年12月15日木曜日

抵抗と感情の演技を活用して得た活動改善の萌芽 下

2016.12.14記事「抵抗と感情の演技を活用して得た活動改善の萌芽 上」の続きです。

6 まとめることのうれしさ実感(感情の演技)

ブログ記事をまとめて論説にしたり、それらを掲載するサイト構築にかんするうれしさを意識的に実感しました。

6-1 感情をうまれさせるためには具体的イメージが必要

「ブログ記事をまとめる」ことのうれしさを実感するといっても、それを自分が納得できるレベルで具体的イメージになっていなければ感情がうまれません。

感情を生まれさせる具体的イメージの種類は自分に抵抗があることが判った社会性に関するものにしました。


社会的誇示(社会に認めてもらう)
●社会的に自分の存在や能力を誇示できる。

交流
●作品をつくることにより、掲載サイト訪問者が増え、趣味活動が励まされ、促進できる。
●作品をつくるために専門家のアドバイスを得た方がより良いものになり、その活動は楽しい。
●作品をつくる過程で読者の方々と交流すれば楽しい。
●作品をつくることで共鳴者とグループをつくり、市民活動展開の礎にすることができる。

社会的影響(影響力ある情報の発信)
●作品をつくり公表することで、市民や行政に新たな参考資料を提供し、影響力を発揮できる。世の中に一石を投じることができる。

6-2 うれしさ感情を味わうためには、それに至るプロセスや発展形がよかった

また、うれしさ感情を生まれさせるイメージはその完了形ではなく、その完了にいたる過程(プロセス)と、完了後の次の発展形にしました。

そのほうがうれしさ感情を味わいやすくなります。

6-3 隙間時間にうれしさ感情を味わう

うれしさ感情に実感は次のように行いました。

寝床に入って眠りに入る前、朝目覚めてから起床するまでの時間、早朝散歩の時間、パソコンに向かってブログ記事を書いている時の区切りの時間などです。

1回のうれしさ感情の実感時間は平均して数分になると思いますが、特段時間制限を設けていません。

本来の生活時間侵食はほぼゼロですが、感覚的には一日中ブログ記事をまとめることのうれしさ感情を味わっていることになります。

6-4 うれしさ感情と情景が結びついている

なお、このうれしさ感情の生起活動(感情の演技)ではうれしさ感情となんらかの情景(映像)がいつも結びついていることに気が付きました。

情景の存在しないうれしさ感情は存在しないような印象を受けています。

浮かぶ情景は明瞭とは限りません。

また自分の頭に浮かぶのですから、おそらくすべて過去に見た、体験した情景だと思います。

そして、逆にその情景を頭に思い出すと、うれしさ感情を引き出すことができることにも気がつきました。

7 うれしさ感情を実感した活動の効果

ブログ記事をまとめる活動のうれしさ感情を実感する活動(心トレーニング)を継続しているうちに次のような活動(ブログ活動)を始めることができました。

●過去ブログ記事のふりかえり
ブログ花見川流域を歩く2016.11.19記事「ブログ花見川流域を歩く 6年間のふりかえり
2016.11.24記事「考古歴史学習 6年間のふりかえり
2016.11.30記事「地名学習 6年間のふりかえり
2016.12.02記事「地形学習 6年間のふりかえり
2016.12.04記事「自然風景観察、社会学習 6年間のふりかえり
2016.12.07記事「過去6年間学習テーマのKJ法図解

●サイト 花見川学習ミュージアム準備室 構築 (未公開)
学習記録の記述開始

感情の演技活動を行ったので、これまでできなかったブログ記事まとめ活動に着手できて、着実に作業を進めだすことができたと実感しています。

過去ブログ記事ふりかえりでは抵抗感があったのですが、それを乗り越えることができました。

そしてブログ記事まとめのための基礎作業を進めだしていて、最初のステップを完了できるメドもたちました。

入門レベル、初歩レベルですが、感情の演技の有効性、有用性を体感・体験できたと思います。

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2016年12月14日水曜日

抵抗と感情の演技を活用して得た活動改善の萌芽 上

抵抗と感情の演技を活用した心トレーニングを行い、趣味活動改善の萌芽を得つつありますので、記録しておきます。

心トレーニングのテーマは「ブログ活動のまとめ」です。

ブログ活動を6年間行ってきて、3年目頃からその活動をまとめたい(論説やサイトにしたい)という気持ちが強まってきているのですが、それが実現できないという幸福否定現象があります。

この幸福否定現象を対象に心トレーニングをおこないました。

その様子を順番に記述します。

1 まとめることのうれしさの列挙

ブログ記事をまとめるとどんなうれしさがあるのか、出来るだけ網羅的に考え着くものすべてを列挙していみました。

ブログ記事まとめのうれしさ列挙例

・社会的に自分の存在や能力を誇示できる。
・一旦まとめることにより、次の作品作り(検討、学習、研究)の礎をつくることができる。
・作品を作るまでに分析や表現に関する各種パソコン技術、知的生産の技術の習得が必要であり、それが楽しい。
・作品を作るには膨大な情報を処理する必要があり、その能力開発が必須であり、それが楽しい。
・作品をつくることにより、掲載サイト訪問者が増え、趣味活動が励まされ、促進できる。
・作品をつくることができるという自分の能力を確認でき、発展できる。
・作品をつくるエネルギー発揮を家庭生活等と調和させる必要があり、その調和能力向上が楽しい。
・作品をつくるためには本格的研究的取り組みにより補強する必要が生まれ、本格研究の道に入る。
・作品をつくるために専門家のアドバイスを得た方がより良いものになり、その活動は楽しい。
・作品をつくる過程で読者の方々と交流すれば楽しい。
・2013年に作品をつくると決意してそれが失敗して、その失敗を挽回することができ、自信が生まれる。
・作品をつくるためには日々の散歩でそのことについて継続して思考する必要があり、散歩の思考が充実する。
・これまでの活動を体系的整理すること自体がチャレンジャブルで楽しい。
・作品をつくり公表することで、市民や行政に新たな参考資料を提供し、影響力を発揮できる。世の中に一石を投じることができる。
・作品をつくることで共鳴者とグループをつくり、市民活動展開の礎にすることができる。

2 抵抗を利用したうれしさの計測

列挙したうれしさについて、そのうれしさを深く実感してみました。

うれしさについて深く実感できるもの、あまり実感できないものがあります。

また実感しようとすると睡魔が襲ったり、眉毛や鼻を無意識に触りたくなったり、お茶を飲みたくなったり、別の興味が頭に浮かぶものもあります。

つまり、最初列挙したうれしさについて、自分の心が「その通り」と感じているものと、「抵抗」しているものがあることが判ります。

その結果を2段階で表示します。

●●はうれしさを深く実感できるもの。
●はうれしさをあまり実感できないもの、あるいは肉体的心理的抵抗が生まれるもの。

●社会的に自分の存在や能力を誇示できる。
●●一旦まとめることにより、次の作品作り(検討、学習、研究)の礎をつくることができる。
●●作品を作るまでに分析や表現に関する各種パソコン技術、知的生産の技術の習得が必要であり、それが楽しい。
●●作品を作るには膨大な情報を処理する必要があり、その能力開発が必須であり、それが楽しい。
●作品をつくることにより、掲載サイト訪問者が増え、趣味活動が励まされ、促進できる。
●●作品をつくることができるという自分の能力を確認でき、発展できる。
●作品をつくるエネルギー発揮を家庭生活等と調和させる必要があり、その調和能力向上が楽しい。
●作品をつくるためには本格的研究的取り組みにより補強する必要が生まれ、本格研究の道に入る。
●作品をつくるために専門家のアドバイスを得た方がより良いものになり、その活動は楽しい。
●作品をつくる過程で読者の方々と交流すれば楽しい。
●●2013年に作品をつくると決意してそれが失敗して、その失敗を挽回することができ、自信が生まれる。
●●作品をつくるためには日々の散歩でそのことについて継続して思考する必要があり、散歩の思考が充実する。
●●これまでの活動を体系的整理すること自体がチャレンジャブルで楽しい。
●作品をつくり公表することで、市民や行政に新たな参考資料を提供し、影響力を発揮できる。世の中に一石を投じることができる。
●作品をつくることで共鳴者とグループをつくり、市民活動展開の礎にすることができる。

3 うれしさ計測結果の分析・考察

うれしさを能力開発、社会的誇示、交流、社会的影響の4つに大分類して、それごとに計測結果をみると次のようになります。

能力開発
●●一旦まとめることにより、次の作品作り(検討、学習、研究)の礎をつくることができる。
●●作品を作るまでに分析や表現に関する各種パソコン技術、知的生産の技術の習得が必要であり、それが楽しい。
●●作品を作るには膨大な情報を処理する必要があり、その能力開発が必須であり、それが楽しい。
●●作品をつくることができるという自分の能力を確認でき、発展できる。
●作品をつくるエネルギー発揮を家庭生活等と調和させる必要があり、その調和能力向上が楽しい。
●作品をつくるためには本格的研究的取り組みにより補強する必要が生まれ、本格研究の道に入る。
●●2013年に作品をつくると決意してそれが失敗して、その失敗を挽回することができ、自信が生まれる。
●●作品をつくるためには日々の散歩でそのことについて継続して思考する必要があり、散歩の思考が充実する。
●●これまでの活動を体系的整理すること自体がチャレンジャブルで楽しい。

社会的誇示(社会に認めてもらう)
●社会的に自分の存在や能力を誇示できる。

交流
●作品をつくることにより、掲載サイト訪問者が増え、趣味活動が励まされ、促進できる。
●作品をつくるために専門家のアドバイスを得た方がより良いものになり、その活動は楽しい。
●作品をつくる過程で読者の方々と交流すれば楽しい。
●作品をつくることで共鳴者とグループをつくり、市民活動展開の礎にすることができる。

社会的影響(影響力ある情報の発信)
●作品をつくり公表することで、市民や行政に新たな参考資料を提供し、影響力を発揮できる。世の中に一石を投じることができる。

うれしさを本当に実感できていたのは能力開発の面だけであったことが判りました。

ふりかえると、社会的誇示に関して積極的に発表するなどの意欲にこれまで欠けていました。

また交流も最小限にしてきています。

社会的影響も限定してしまっています。

社会的誇示、交流、社会的影響は相互に関係していますから、まとめて社会性といえると思います。

その社会性の面で幸福否定が存在していることが見えたといえます。

ブログ記事作成において、自分の能力開発には抵抗はなかったけれども、社会の中で交流して、自分が見つけた情報を社会に知らしめ、社会にそれを有益情報として活用してもらうという面で、幸福否定が存在していたと気が付くことができました。

4 これまでまとめられなかった理由とその考察

これまでなぜブログ記事をまとめる活動が成功しなかったのか、その理由を列挙してみました。

・興味が日々のブログ記事に向かい、まとめの興味が継続しなかった。
・ブログ記事作成で手一杯であり、まとめに裂く時間がとれなかった。
・まとめのための、過去記事整理が膨大な作業であり、作業を始めたが頓挫した。
・興味を抽出するという作業を始めたが、入口で興味を失った。
・まとめ作業を継続する興味継続の仕掛がなかった。
・まとめ作業に期限がないから、そのまま放置した。
・まとめ作業をしないことに対する外圧がなかった。

以上を要約するとつぎのようになります。

◆まとめより楽しいこと(日々のブログ記事作成)があり、それで手一杯であった。
◆まとめ作業に対するうれしさ・楽しさの実感を創出できなかった

まとめ作品をつくることで生まれる社会的影響力発揮に対する幸福否定が存在していたと推察できます。

まとめ作品をつくることに関する技術開発とか能力開発とか、自分の能力開発に対する幸福否定ではなく、作品が持つ社会的影響力を否定してきたようだと感じます。

論理ではまとめ作品をつくることの大切さを理解しながら、感情面では、社会的影響力を発揮するような自分の存在を、内心が否定してきたから、まとめ作品が実現しなかったと考えることができます。

5 この事例における幸福否定

以上の心トレーニングにより、この事例における幸福否定の本質はそれによって社会関係を狭め、弱め、破壊することにあるように感じます。

そうすることによって、社会性に関する自分の能力や自信を否定し、一種の問題を起こしているのだと思います。

この事例の場合、内心が行う幸福否定の真の目的は本人の社会関係の制限や破壊であるような気がします。

この事例の解釈は抵抗を指標にして一応はできたと直観できました。

次の記事で、この事例を感情の演技で解決していくプロセスの最初段階の様子を記録します。

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2016年12月5日月曜日

感情の演技に関する感想

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)の中の、感情の演技について学習しています。

感情の演技に関する感想をいくつか列挙してメモしておき、後日じっくり検討したいと思います。

1 方法と効果の因果メカニズム

感情の演技に関して、実践的方法と効果がかかれているのですが、なぜ効果があるのかその理由はかかれていません。

したがって、方法と効果の間に因果関係はあっても、そのメカニズムはブラックボックスに入っていて不明です。

しかし文中に「自然な感情を作ることが、化学実験の触媒のような働きをして、本心に潜む率直な感情が意識に引き出されてしまう…」という記述があり、著者のイメージがわかるような気がします。

抵抗が存在することがらについて自然な感情(例 うれいしいという感情)をつくれるようにすれば、抵抗が減じるというメカニズムがあることはイメージできます。

そこで、自然な感情をつくる機会をできるだけ増やして、どのように抵抗が減るか生活の中で自分を観察していきたいと思います。

自然な感情を作るとなぜ抵抗を弱めることができるのか、自分の観察もふまえつつ、そのメカニズムをもっと学習したいと思います。

2 感情の演技の重要ポイント

この図書では、

●方法論として、自然な感情を出そうとするとき生じる抵抗の強い方向に、強い方向に進まなければ効果がない。

と述べられています。

重要なポイントであると考えます。

うれしさ感情をつくれたとき、それはその場面での抵抗を弱めることができたと確認できます。

同時にうれしさ感情を作れないとき、その場面での抵抗が強いことの確認ができたことになります。

うれしさ感情をつくって、一歩一歩抵抗虚弱化活動をすすめることができるということです。

この図書に、いつまでたってもバーを越えられない走り高跳び選手として感情の演技者を紹介していますが、何か違和感を感じます。

次々にバーを越えている選手であって、その目標に限界はないということだと思います。

3 一人で行うこと

この図書では、

●ヨガや座禅で指導者に方法を教えてもらえれば自分でやりますといえば相手にされないように、感情の演技を一人で行うことはできない。

ことが述べられています。

この指摘は病気治療ならいざ知らず、「締め切りまでに計画的に仕事ができるようになる」程度のことを望んでこの図書を読んでいる一般人(私)にはほとんど越えられない(正確には、越える意欲や必要性が最初から生まれない)ハードルです。

この記述は、この図書で定義する感情の演技(著者のTMマークがつくべき用語だと思います)とは別に、自分ができる活動として感情の演技似活動(感情の演技もどき活動)を自由にしていく時には考慮する必要はないと思います。

原理原則の学習はこの図書から行い、またできるだけ具体的方法もこの図書に近づけるようにしつつ、現実には自分一人で実施可能な感情の演技似活動を展開したいと思います。

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2016年12月3日土曜日

幸福否定が完全徹底しない理由

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)で説明されている幸福否定は万人にある心の現象のようです。

その強弱は個人によって多少異なるようです。

しかし、どの個人でも完全徹底はしないようです。

もし幸福否定を全個体で完全徹底すれば種として存立できないと想像します。

締め切り間際まで仕事が手につかないという身近な症状でも、最後には、幸福否定は手綱を緩めて直前徹夜作業程度は許します。

知的生産の技術本にも、締め切り直前集中作業が効率的であるとわざわざ書いてあるものがあるほどです。

幸福否定という名称は、うれしさや自信を否定する心の現象という意味に由来するようですが、私は否定するという側面に本質があるとは考えられなくなっています。

否定することに本質があるのなら、完全否定すればよいのであって、わざわざ抜け道をつくる必要などはありません。

仕事をさせないことが目的なら、締め切り間際のある時点まで仕事をさせないだけでなく、締め切りまで完全に仕事をさせないようにして、つまり完全否定して、うれしさと自信を完全に打ち砕けばよいと思います。

しかしそうなりません。

抵抗の強さが締め切り直前になると弱まることを示す図
笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)から引用

幸福否定はうれしさや自信を制限し小出しにする装置のように感じます。

幸福を制限し小出しにして、幸福の有難さやすばらしさを味合わせ、それに向かって努力すること、克己することを個体に誘っているように感じます。

各個体(個人)の中には幸福の制限小出しに満足するものもいれば、克己して幸福制限をある程度解除するものもいる状況が生まれます。

種社会としては克己して幸福制限をある程度解除できる能力を有する個体の子孫が増えるような仕組みになっていて、種の繁栄に役立つようになっていると考えることも可能です。

このように想像すると、幸福否定という個体における現象が種レベルでの幸福(種の能力向上とそれに伴う繁栄)の原動力になっていると捉えることもできます。

幸福否定という心の仕組みが進化のなかで消滅すべき遺物と考えるのは早計だと思います。

幸福否定を高等生物進化の隠された仕掛として積極的に評価できるかもしれません。





2016年11月29日火曜日

感情の演技に類似する有用な活動

感情の演技似活動(感情の演技もどき?)をして、その効果があるように感じています。

2016.11.26記事「感情の演技似活動とその効果」参照

その活動の中で、デジャブを感じました。

怒りを感じた時に、相手が喜ぶことを考えるだけで(実際に相手を喜ばすならばなおさらのこと)、怒りが収まるという心操作技術と感情の演技が似ているという感想です。

この怒り対処の心操作技術は、職業生活で実際に大変有効であった体験をしています。

感情の演技は、自分の喜び(うれしさ)を感じ、自分の内心が行っている否定行動を治めようとしています。

一方、怒り対処法は相手の喜び(うれしさ)を感じ、自分の怒りを治めようとしています。

自分の心の操作として、どこか類似性を感じてしまいます。

2016.09.05記事「怒りを治める方法と感情の演技の相似性」参照

以下、感想レベルでその類似性を列挙してみました。

(感情の演技の例として、締め切り間際まで仕事ができない幸福否定を例としました。)

心操作面で似ている要素

●意識の視野の狭さを広げる

・二つの技術ともに客観的に状況を見てみる機会がうまれる。

・自分の意識の視野の狭さがわかる可能性がうまれ、自分の視界がひらける。

・怒りを感じる自分の心の狭さを感じれば、怒りがばかばかしくなる。

・締め切りまでにするべき活動がうれしいことであると感じれば、さぼることに汲々としていることがばかばかしくなる。

●固まった意識をほぐす

・二つの技術ともに固まった意識(ルート)をほぐし、別ルートで思考する可能性が生まれる。

・別の回答があるかもしれないと考える機会が生まれる。

●内在するうれしさの種を勇気づける、育てる、助長する。

・二つの技術ともに、隠れているうれしさの種がみつかり、それに着目する可能性が生まれる。

●自分や内心から離れている

・相手の喜ぶことを考えることは自分自身のことを考えることから離れることであり、怒りから離れられる。

・うれしい感情を味わうことは幸福否定の感情(内心)から離れること。

●怒りや幸福否定を考えること以外に使う時間が生まれること

・怒りや幸福否定以外のことに時間を使うことにより、その時間だけ怒りや幸福否定から離れることができる。

……………………………………………………………………
追記 2016.11.30

●有用な記憶を思い出す機会がうまれる。

・感情の演技似活動も怒りを治める心的技術も、その過程の中で忘れていた(忘れさせられていた)体験記憶を思い出し、生活の整序に活用できるようになる、ということもあるような気がしていますので、メモしておきます。

・感情の演技や怒りを鎮めることが必要な時は、自分の豊かな記憶にアクセスできないような頭脳上の制約があるように感じています。


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2016年11月27日日曜日

感情の演技似活動に関する感想

2016.11.26記事「感情の演技似活動とその効果」で書いたように、自分スタイルで感情の演技もどき活動を行っています。

この活動を行うなかで次のような感想をもちましたので、メモしておきます。

うれしさという感情をリアルかつ意識的に生まれさせる(味わう)ということが思った以上に困難であるということです。

困難の側面は2つあるように感じています。

1 うれしさの素となるイメージを想起した時、それに対応するうれしさ感情を発生させることが技術的に困難であるという側面。

2 うれしさの素となるイメージを想起した時、抵抗の結果それに対応するうれしさ感情を発生させることが困難であるという側面。

1は肉体的運動能力でも、知的思考能力でもだれでも訓練をうけなければその能力は低く、訓練をうければその能力は向上するという事柄と対応する問題です。

誰でも、意識的に特定感情を発生させる能力を訓練すれば、その能力は向上すると思います。

しかし、一般人は私を含めて、特定感情を意識的に発生させる能力開発訓練を行っていません。

ですから本来有している自分の感情発生能力レベルより低いレベルでしか感情を発生できないと思います。

そのような未訓練による感情発生能力の低レベルのため、うれしさ感情を発生できないという問題があります。

2は幸福否定理論の最重要ポイントである心の事象(幸福否定)に関連する事柄です。

うれしさの素に抵抗があるから(内心の幸福否定機能が発揮されているから)こそうれしさ感情が率直に生まれないということです。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では、抵抗によりうれしさの素にたいして率直なうれしさ感情を発生できないので、逆にそのことから、そのうれしさの素が本物のうれしさの素であるということが書かれています。


直感的には1と2は連動しているように感じます。

感情の素にたいしてその感情を率直に発生させる能力を訓練によって技術的に向上させることは、肉体運動能力や知的思考能力などと同じように可能であると考えます。

そのような感情操作能力が向上すれば、内心による幸福否定(つまり内心による感情操作)の領域は狭まると思います。内心の活動が制約されると思います。

一方、内心の抵抗下における困難な感情発生を試みると(感情の演技を行うと)、感情操作能力全般も向上するに違いないと思います。

心能力(感情操作能力)の訓練というものが一般に行われていないため、また内心による抵抗というものがあるために、感情の演技を行うことは困難を伴います。すっきりした活動になりません。

しかし困難ですっきりしないのに、いつの間にかうれしさの素を希求する方向に生活がむかうのですから不思議です。

感情の演技をすることと生活改善がすすむことの間の因果関係について深く学習したいものです。



自分の夢を文章に書きだす活動とか、グッド&ニュー活動が生活や職場の改善に資する理由と感情の演技の効果とは類似のものだとますます確信しました。

自分の夢を書くとき、希望に包まれたうれしさ感情を味わっています。

グッド&ニューをしているとき、ほのかなうれしさ感情を味わっています。

風景

2016年11月26日土曜日

感情の演技似活動とその効果

1 感情の演技似活動

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)で紹介されている感情の演技を夏頃から自分なりに実践してきました。

ただし、この活動が本当に笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)で紹介されている感情の演技そのものであるのか、それとも感情の演技に近い(似た)別の活動であるのか、あるいは感情の演技とは程遠い別種自己暗示活動であるのか、自分では判断ができません。

とりあえずは感情の演技と全く無関係でもないだろうと考え「感情の演技似活動」として捉えておきます。

2 活動の実相

次のような活動を毎日しています。

私には趣味活動(ブログ活動)のまとめ(ブログ記事の論説化)をしたいという願望(夢)が以前からあるのですが、幸福否定現象により、なかなか実現しません。

そこで、ブログ記事をテーマ毎に論説としてまとめ、それを体系的に集成したサイトを作った時の「うれしい感情」を心に生起させることを毎日しています。

主に起床前の寝床で、散歩中に、書斎でブログ記事を書いている途中で、1日に数回です。

ブログをまとめた時の「うれしい感情」をできるだけ実感を持って思い出させる(心に生まれさせる)努力をしています。

しかし、その「うれしさの実感」が過去にあった飛び上がるようなうれしさの実感とはなんだか違うような気がしています。

ピンボケの「うれしさ」のような気がして仕方がありません。

ピンボケではない「うれしさ」の感情を確認しようとして、過去の他の実例としての飛び上がるようなうれしさの実感を思い出そうとしても、それができません。

飛び上がるようなうれしさの感情を本当に体験したことがあるのか、その辺の体感的記憶も不確かになってきてしまいます。

ともあれ、ブログ活動をまとめたサイトをつくるという夢が実現したときのうれしい感情を浮かび上がらせようと毎日夏頃から心の活動を1日数回しています。

夢実現のうれしさをささやかレベルではありますが、日頃味わっているといことになります。

3 活動の効果

この感情の演技似活動の効果と考えられますが、最近ブログ記事まとめ意欲がある臨界点に達し、過去記事のふりかえりを行いだしました。

ブログ「花見川流域を歩く」2016.11.19記事「ブログ花見川流域を歩く 6年間のふりかえり」など参照

ブログ記事のまとめ方やその表現方法などは特設WEBページを設けて作業を進めています。(仮称 花見川学習ミュージアム 非公表)

感情の演技似活動とその効果は双方とも虚弱なものですが、その関係性(相関性)は強固であると直観しましたので、それをこの記事でメモしました。

4 技術メモ 夢イメージとうれしさ感情

ブログ記事をまとめたサイトをつくるといううれしさ感情を生起させるときに、ブログ記事をまとめたサイトの構造とか、情報量とか、情報の質レベルとか、見栄えなどを総合的かつ一瞬でイメージします。

そのような完成物(夢)のイメージによって「うれしさ」の様子が違ってくるような感じをもちます。

うれしさ感情の強弱やうれしさの種類が違ってくるような感じがします。

うれしさの素である完成物(夢)のイメージを具体化する(設計する)ことが大切であると考えます。

一方、ブログ記事まとめサイトの構築設計では、自分のうれしさ感情を盛り込みながらそれを作業することが大切だと思います。

感情の演技ではうれしさ感情を生起させるのですが、その素(対象)となる事物や出来事などのイメージをできるだけ具体化するということも大切であると感じました。

私のうれしさ感情がピンボケであると感じるのは、その素がピンボケであるからかもしれません。

風景(11月の降雪)

2016年11月22日火曜日

内心の社会性

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)の第1章では「身近な出来事に潜む"幸福否定"」と題して次のような事例が述べられています。

● 幸福否定が潜む身近な出来事 事例

1 締め切りまぎわにならないと課題に手をつけられない現象

2 部屋の片づけも、つい先延ばししてしまい、なかなかできない

3 始業時間や待ち合わせの約束に必ず遅れる遅刻の常習

4 自分が本当にしたいと思っていることを実行しようとする場合、それが難しい

5 青木まりこ現象(書店に入ると便意を催す)

6 自分の好きなものをはっきり言うことはよくないと思うこと

7 自分の食べたいと思っているものを食べることはよくないと思うこと

8 自分が幸福になる資格はないと思うこと

9 引っ越しうつ病

10 昇進うつ病

11 マリッジ・ブルー

12 マタニティー・ブルー

13 内縁関係のふたりが、妻の要望に従って婚姻届を出したとたんに、妻が心身症を発症

14 結婚して子どもがいる夫婦が、そのままではふたりとも心身症状が続くため、意を決して、生活はそのままで離婚届けだけを出したところ、それまでの症状が治まった(逆事例)

15 洋服や電子機器など自分がほしいと思っていたものをようやく購入しても、しまい込んでしまって使わなかったり、何かの理由をつけて、リサイクル・ショップに出してしまう

これらの事例を素人なりに眺めてみると、全て社会と個人との関係における出来事であるように感じます。

純粋な本能次元の出来事でないことは明白です。

生命を維持するために必要な原始的食欲、排便欲、睡眠欲、性欲などに関わっているものではありません。

社会との関わりの中で初めて生まれている現象が幸福否定です。

逆説的に言えば、社会との関わりが希薄になれば、幸福否定現象が生まれる必然性が希薄になるように感じます。

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)では「晩年寛解」という概念を紹介していて、分裂病に関して「老年 に なる と、“ ふつう” の 人 でも、 第一線 を 退き、 多少なりとも 社会的 責任 から 解放 さ れ、 一人前 扱い をさ れ ず に すむ よう に なる ので、 それ に 倣っ て、 その 分 だけ、 それ までの“ 警戒” 状態 を 多少 緩める こと も ある。」と述べ、「半人前扱いを公認する環境に置かれれば、老年でなくとも、晩年寛解と同じような現象が起こりやすい。」と説明しています。

この説明は幸福否定現象が社会との関わりが必須条件であることを語っていると理解します。

幸福否定という観点から個人と社会の関係は次のようにイメージできるのではないかと想像します。

幸福否定を起こす内心は社会的に繋がって機能している?

無意識が現代社会にまだ十分に知られていない方法で密接に繋がっていて、その中で個人レベルの幸福否定現象が生起しているのだと考えます。

無意識(内心)が社会全体と個人の関係を熟知していて、その総合的な情報に基づいて幸福否定現象を発生させているように想像します。

人社会での役割が大きければ(青年期~中高年期)、無意識が社会と緊密に連絡していて、その分幸福否定現象が発生しやすいと想像します。

人社会における役割が大きくなければ(幼少年期、老年期)、無意識の社会との連絡が疎となり、その分幸福否定現象が発生しにくいと想像します。


2016年11月15日火曜日

幸福否定現象の一環としての記憶消去

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では幸福否定現象の一環としての記憶消去が随所で語られています。

例えば次のような記述がみられます。

……………………………………………………………………
人聞は、何らかの出来事や状況に直面した時、それが幸福感を呼び覚ますものかどうかを、つまりは、それが自分の進歩につながることかどうかを、心の奥底で一瞬のうちに正確に判断します。

そして、それが幸福感を呼び覚ますものであれば、その瞬間にその幸福を避けようとする態勢に入ります。

その時、「内心」は次のふたつの戦略を同時並行的に使います。

ひとつは、いわば幸福に水を差す形で、心身の症状を瞬時に作りあげたり、行動の異常を起こしたりすることです。

もうひとつは、幸福感を呼び覚ます出来事や状況の記憶を、意識から一瞬のうちに消し去るという操作をすることです。
……………………………………………………………………

自分毎として幸福否定現象を観察したとき、記憶消去はありうる、あったに違いないと理解するのですが、具体例を思い出すことはしませんでした(できなかった?)。

ところが、趣味活動の中で、これが「記憶消去」かと本日感じたことがありますので、メモしておきます。

私の趣味活動では花見川や下総台地や千葉県を対象に地形、考古歴史、地名などについて探求的学習を行ってきて、随時ブログ記事にしてきています。

自分毎ながら随分と面白いことを考えつくものだと自己満足しています。

そこで、日々のブログ記事をまとめて論説にしたいと考えるのですが、それに対してアーダ、コーダという屁理屈をつけていっこうにしようとしません。

自分にそうしたことをするだけの基礎的力があることは確実です。

しかしそれが出来ないのですから、幸福否定現象の一環であると考えています。

この幸福否定を緩和しようという算段でこの数日ブログ記事をまとめる活動をし出したのですが、その中で、1年前にもほとんど同じ発想で同じ活動を始めて、過去5年間のブログ記事リストを作成し、その記事テーマの概要を作成した資料を「発見」しました。

1年前に多大な労力をかけてブログ記事とりまとめ作業をかなりしているのです。

その記憶が完全に消去されていたことに気が付かされたのです。

単なる物忘れではなく、自分の趣味活動を発展させるためには重要であるがために意図的に消去されたと実感できました。

自分にとっては重要な気づきとなりました。

記憶から消去されていたブログ記事テーマをまとめた資料




2016年11月11日金曜日

幸福否定現象としての能力発揮抑制症が存在するのでは?

締め切り間際症(締め切り間際にならないと仕事(勉強)に手が付かない幸福否定症状)に関連して、次のような類似(関連)の幸福否定症状が存在するに違いないと直観しますので、その想定をメモしておきます。

私自身の過去の体験から次のように直観します。

締め切り間際にならないと仕事(勉強)に全く手が付かない症状という典型例を卒業して(*)、仕事(勉強)をある程度計画的に行う場合に、自分の本来能力が発揮できなくて、質の低い仕事(勉強)しかできないという症状です。

*社会の中に深く組み込まれると、単純な締め切り間際症は少なくなり、「懲りて」「学んで」あるいは強制力配下に身を置き、誰でもある程度は計画的に仕事(勉強)をするようになると考えます。

「本来自分が有している能力と比べて質の低い仕事しかできない」という自分の評価は、その真っ只中で正確に判断することは困難です。

しかし高齢になり過去を振り返ると、締め切り間際症と同じように、能力発揮抑制症が存在するように感じます。

幸福否定現象として、能力発揮抑制症があるように感じます。

幸福否定の一環として、本来有している能力の発揮を抑制して、それにより自分の価値を低めておく、自信を失わせるという内心の操作があるように直観します。

内心は不都合な(つまり自信をもてる、価値を高められるようなことに資する)記憶を消すことができるとのことですから、記憶を消すだけではなく、一般能力発揮(情報演算能力…分析力、総合力、とりまとめ力など)である脳機能の抑制も可能ではないかと想像します。

自分の過去体験を思い出すと、仕事はある程度計画的に取り組んだのですが、仕事の質が自分の本来能力よりかなり低い結果になった場合があり、幸福否定現象として捉えるとガテンがゆきます。

幸福否定現象としての能力発揮抑制症は、私個人特有のものではなく、人一般にあるように感じます。職場で一緒であった人々の仕事ぶりをふりかえって、そのように感じます。

締め切り間際症などより、能力発揮抑制症のほうが社会的にはるかに重大な問題です。

もし、感情の演技などの手法により締め切り間際症が「治療」できるならば能力発揮抑制症も「治療」できる可能性が生まれ、その社会的意義の大きさは図りしれないと考えます。

能力発揮抑制が幸福否定現象の一環であるならば、それを測る有効な指標は「反応」ということになります。

能力発揮抑制と反応の関わりがどのように捉えられるのか、今後学習を深めたいと思います。

風景





2016年11月7日月曜日

「幸福否定」とは「うれしさの否定」と理解する

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしていて、幸福否定という学説の壮大さ、奥の深さに強く感心しています。

幸福否定の学説は、素人の自分にも、現代社会の再生に関わる根本的な意義を有していると直感できます。

さて、以前2016.10.22記事「損している「幸福否定」」を書きました。

「幸福否定」概念を自分なりに学習してその素晴らしさを感じれば感じるほど、「幸福」という熟語がその概念にピッタリ一致していないように感じたからです。

マスコミ等で幸福という言葉を聞くと、私は「何をもって幸福というのですか?」と必ず質問したくなります。

世の中には幸福と考えられる中に不幸が潜んでいることが沢山あります。その反対に不幸と考えられる中に幸福が含まれていることも沢山あります。

幸福という言葉には、その背景に必ずその言葉を使った人の価値観が控えています。

そして人によって幸福-不幸の判断が異なります。


このような疑問(違和感)があったので、2016.10.10記事「幸福否定が存在しない状況を考えてみる」で、幸福否定の幸福を「したいこと」という言葉で代替してみました。

そのように代替すると、幸福という哲学的・宗教的ニュアンスを帯びる言葉から心理や感情を表現する言葉に置き換えることができると考えたからです。

この時点では幸福=「したいこと」と理解しました。


…………………………………………………………………………………………………………………………………………
参考 引用 2016.10.10記事「幸福否定が存在しない状況を考えてみる」(部分)

1 幸福否定という心の原理が存在しない場合の状況推定

1-1 幸福否定の説明

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の「まえがき」では幸福否定を次のように説明しています。

……………………………………………………………………
① 自らの「無意識の一部」が、自分が幸福の状態にあることを極度に嫌い、その幸福感を意識にのぼらせないような策を講ずる。

② それと並行して、自分が幸福ではないことを自分の意識に言い聞かせるために、目の前に問題を作りあげる。

③ その結果として生み出されるのが、心身症や精神病という病気であり、行動の異常である。

この一連のしくみをつかさどる「無意識的な意思」のことを、私は“幸福否定”と呼んでいます。
……………………………………………………………………

1-2 幸福否定の原理が存在しない状況の想定

幸福否定という心の原理が存在しない状況を、上記引用文を改変して記述してみます。

なお、幸福という言葉は抽象的で多義的ですから、これを「自分がしたいこと」と言い換えます。

① 自らの「無意識の一部」が、自分がしたいことをしている状態にあることを嫌うことはない。

自分がしたいことをしている達成感や満足感をいつも意識することができる。

② 自分がしたいことができないと自分の意識に言い聞かせることはないので、自分自身が目の前に問題を作りあげることはない。

③ 自分が目の前の問題をつくりあげ、自分の邪魔をすることはないので、それに起因する心身症や精神病という病気や行動の異常は存在しない。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………

その後、笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読み出し、幸福=「したいこと」ではなく幸福=「うれしいこと」であることを知りました。

「うれしいこと」なら「したいこと」も「幸福と感じる」も含まれる心の状態を表現できる言葉です。

「うれしいこと」は感情そのものですから、その言葉を使う人の価値観や思想を問題にしなくて済みます。

締め切り間際にならないと作業に着手できない幸福否定現象はこれまで「自分のしたいことを自分が否定している」と捉えていました。

しかし、そうではなく「作業を計画的に順調に進めて仕上げるという自分の本来能力が発揮できてうれしいということの否定」であると捉えるようになりました。

古代中国で犠牲坑に何千人もの生身の人間を埋めるのではなく、その代わりに土人形(兵馬俑)を埋めて同じ効用を得るようになったという幸福否定緩和の社会進歩も、「何千人もの生身の人間を殺さないことはうれしいということの否定」の緩和現象であると言い換えることができると思います。

201611.02記事「笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版) 人類史における幸福否定緩和の例」参照

うれしさの否定 が含まれる小見出し 笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)

感情の演技も、「したいという感情」ではなく、「できてうれしいという感情」を発生させることとあらためて理解できました。

2016年11月3日木曜日

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版) 権威に頼ることと幸福否定の関係

このブログでは一般解説本である笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしていますが、その親本ともいうべき笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読んでみました。

その中で自分の趣味活動において大変役立つと思われる記述を見つけましたので、メモしておきます。

自分が権威とみなすものをつくれば認知の歪みが生まれる。

その背景には自分の判断に自信があることを自分に対して否定する幸福否定現象が存在しているという趣旨です。

……………………………………………………………………

自分 が 権威 と 見なす 者 の 判断 に従って、 偽物 と 思え ば それ らしく 見える し、 本物 と 思え ば また それ らしく も 見える。 

その 点 では、 しろうと も 専門家 も、 自分 が 権威 と 見なす 相手 が 違う だけで、 基本 的 には 似 た よう な もの で あろ う。 

人間 の もの の 見え かた や 考え かた には、 この よう な 要素 が 大きく かかわっ て いる ので ある。 

この 種 の 認知 の 歪み にも、 幸福 の 否定 が 関係 し て いる。 

幸福 否定 という 観点 に 立っ た 表現を すれ ば、 人間 は、 自分 の 意識 で 権威 と 見なし た 存在 に 忠誠 を 尽くす ため に、 事物 の 認知 を 積極的 に 歪め、 それ を 自ら の 意識 に 突きつけ て いる、 という こと に なろ う か。 

つまり、 自ら が 頼る べき 権威 を、 何らかの 基準 に 基づい て、 自分 の 中 に 無意識 の うち に 作りあげ て いる という こと で ある。

とは いえ、 なぜ その よう な こと を する ので あろ う か。 

いずれ に せよ、 その 結果 として、 自分 の 判断 は 放棄 さ れる。 

そう する と、 この よう に 手 の 込ん だ 策 を 講ずる のは、 自分 の 判断 自体 を、 あるいは 自分自身 の 判断 に 自信 が ある こと を 否定 する ため、 という 可能性 が 出 て くる。 

結局 は、 自分 が 事実 を 知っ て いる こと を、 自分 の 意識 に対して 否定 し て 見せる ため なのでは ない か という、 妄想 一般 に 共通 する 構造 が ここ でも 浮かび上がっ て くる ので ある。  

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)から引用

……………………………………………………………………

この記述は図書のなかでは医療や催眠などの文脈の中で語られています。

その文脈自体も興味があるのですが、それより一般論として大変大切な記述であり、趣味活動の参考にしたいと思いました。

幸福否定の学習も、笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)や笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)などについて、権威としてアプリオリな正当視をすることなく、素人なりに、門外漢なりに体験的、論理的にその内容を確かめながら進めたいと思います。

風景



2016年11月2日水曜日

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版) 人類史における幸福否定緩和の例

このブログでは一般解説本である笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしていますが、その親本ともいうべき笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読んでみました。

幸福否定理論は自分が想像する以上にはるかに壮大なスケールであることに気が付きました。

その中で、人類史における幸福否定緩和の事例が次のように語られていますので、検討してみます。

……………………………………………………………………
人類 の 辿る 道筋     

人間 が、 その よう な 根本的 進歩 (※)を 遂げる のに 長大 な 時間 が かかる こと は、 別 の 側面 を 見る と わかり やすい かも しれ ない。 

人類 の 歴史 を 振り返る と、 人間 は、 特に 人権 という 点 で、 徐々に では ある が 着実 に 進歩 し て き た こと が、 はっきり と 見て取れる。 

周知 の よう に、 秦 の 始皇帝 は、 膨大 な 数 の 兵馬 俑 を 副葬品 として 自ら の 陵墓 に 納め させ た が、 それ 以前 の 時代 には、 支配 者 の 埋葬 に際して犠牲 坑 という もの が 作ら れ、 その 中 に、 場合 によって は 数 千人 規模 の 人間 が 惨殺 さ れ、 埋め られ て い た という( 岡村、 二 〇 〇 〇 年、 一 四五 ページ)。 

全 人口 の 一 パーセント 程度 を 占める に すぎ ない 支配階級は、 残る 九九 パーセント の 民衆 を、 徴用 に せよ 生け贄 に せよ、 ごく 当然 の こと として、 文字通り 使い捨て に し て い た ので ある。 

世界 四大文明 は、 まさに 上位 一 パーセント の ため の もの で あっ た( 鶴 間 他、 二 〇 〇〇 年、 二 一八 ページ)。 

民衆 の 側 も、 多く は それ を、 当然 の こと として、 あるいは、 しかた が ない こと として、 最初 から 諦め て い た ので ある。

 あるいは、 諦め て いる という 自覚 すら なかっ た かも しれ ない。   

かし言うまでもなく 現代 では、 支配 者 側 からで あれ 民衆 側 からで あれ、 これ と 同じ こと は 起こり え ない。 

二 千年 ほどの 間 に 起こっ た、 人類 史上 きわめて 重要 な もの として 位置づけ られる べき こうした 変化 は、 多少 の 起伏 はあっ た し、 これから も ある に せよ、 漸進 性 の もの で あっ て、 後戻り する こと は ない。 

それ は、 個々人 の 本心 の 一端 が 徐々に 意識 に 浮かび上がり、 本心 および 内心 を 包み隠す、 いわば 隠蔽 の ため の 意識 が、 きわめて わずか ずつ では ある が、 本心 に 由来 する 目覚め た 意識 と 入れ替わっ た 結果 なのでは なかろ う か。 

その ため に、 個々人 の 人格 を 尊重 しよ う と する 素直 な 気持ち が、 ごく一部 で あれ 表出 する よう に なっ た のでは ない か。  
 ただし、 現在 の 世界 でも、 その 例外 が ない わけ では ない。 それ は、…(以下略)

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)より引用

(※ 非唯物論的科学の実現、つまり幸福否定が克服される状況 引用者注)

……………………………………………………………………
この文章を読んだ当初は人権という社会問題が幸福否定とどのように関連するのか、直感的にわかりませんでした。

その後、アーダ、コーダと考えて、この記述を次のように捉えました。

古代中国における社会進歩としての幸福否定緩和例

【人が直面する場面】 社会が徴用や生贄を必要とする状況

【人の本心】 人は粗末に扱うべきではない。

【人の内心】 必要に応じて人を奴隷労働で使い捨てても、生贄として殺してもよい。(人は粗末に扱ってもよい。) 

【人の意識 秦の始皇帝以前】 犠牲抗に数千人規模の人を生贄として埋めることもしかたがない。

↓古代中国における人々の幸福否定の緩和(内心に由来する意識が、人の本心に由来する目覚めた意識に入れ替わる)

【人の意識 秦の始皇帝時代】 犠牲抗に数千人規模の人の生贄の代わりに同数の兵馬俑を埋める。

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)より作成

多数の生贄が必要であるという社会要請に対して、当初は内心に従って、生身の人を使っていたのですが、時間の経過とともに本心が内心を凌駕して、生贄の代替物として土人形を使うようになったという考えです。

この事例について次のような感想を持ちます。

●内心に由来する意識(人の生贄OK)から本心に由来する意識(人の生贄NO)に変化するためには次のような条件が存在していたと考えます。

ア 多数の生身の人を生贄にするとマイナス影響が大きいという体験とその知識の蓄積

イ 生身の人の代わりに生贄として土人形を使っても同様の祈願成果が得られるという理論の発生(構築)

ウ 土人形の精巧な作成が可能となる焼物技術(兵馬俑技術)の発展

このような社会諸条件が整わないと社会規模での幸福否定の緩和はないのですから、幸福否定の緩和が進むためには膨大な時間と社会の知識、技術等の発展が必要であると考えます。

●この検討のアナロジーで「締め切り間際まで仕事をほっぽらかしておき、締め切り間際になって初めてあわてて仕事に着手する」という幸福否定現象を考えてみます。

この「締め切り間際」現象に対応する幸福否定緩和が、もし将来社会であるとすれば、次のような条件の存在が大切になると考えます。

ア 締め切り間際にならないと仕事をしないクセ(習慣)がそうでない場合とくらべていかにマイナスであるか、リスクが大きいかという知識の増大と普及

イ 締め切り間際にならないと仕事をしないクセ(習慣)を改善するための各種技術の発展
(例 仕事に魅力や興味を覚えさせるような知的生産技術、高度なスケジューリング技術、…)

ウ 締め切り間際にならなくても仕事に着手できるようになる心整序技術の発展
(例 「眠気防止技術」、「一人でできる感情の演技」、…)

エ 社会全体で仕事の仕方が改善され(残業、休暇、育児、…)、仕事をする人の作業に対する意欲が向上する。

オ 社会全体で創造的側面のある仕事が増え、仕事監理面で強制性が減じ、自主性が増大する。


以上の検討から、将来社会における幸福否定現象の緩和には次のような条件が大切であるにちがいないと想像することができました。

ア 当該テーマに関する知識・情報の増大

イ 当該テーマに関する知識・情報の共有

ウ 当該テーマに関する各種技術の発展普及

エ 当該テーマに関する心に関する技術の発展普及

オ 社会制度・しくみの改善発展

カ 社会の創造面における発展

同時に、これらの条件を指標として、過去社会(原始社会、古代社会など)における幸福否定現象(の緩和)について検討してみたくなりました。

2016年10月31日月曜日

笠原敏雄著「幸福否定の構造」による幸福否定の意義

このブログでは一般解説本である笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしていますが、その親本ともいうべき笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読んでみました。

幸福否定理論は自分が想像する以上にはるかに壮大なスケールであることに気が付きました。

また「幸せを拒む病」では知りたいと思ったことで書かれていない事柄が多く、自分の学習欲が満たされる面も多くあります。

そこで、笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)を読んで気が付いたことのメモをいくつか記事にすることにします。

この記事では幸福否定の意義についてメモします。

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)の最終章で人類史、あるいは生物進化史の中での幸福否定の意義について書かれていますので、引用します。

……………………………………………………………………

人間 の 本心 は、 生命体 を 絶えず 進歩 さ せよ う と する 駆動 力 と 密接 に 関係 し て いる はず で ある。

 人間 の 一生 の 中 で 起こる さまざま な 好事 や 悪事 には、 本心 と、 それ を 否定 しよ う と する、 本能的 とも 言う べき強力 な 意志( 幸福 の 否定) の 双方 が、 いつも 深く かかわっ て いる。 

その こと から すれ ば、 内心 に 潜む 意志 は、 何らかの 形 で 本心 と協同 し て、 心 の 進化 を 進める うえ で、 積極的 な 役割 を 演じ て いる ので あろ う。   

人間 の 進歩 に 内心 が 積極的 役割 を 演じ て いる と する 推定 は、 内心 によって 心因 性 の 症状 や 異常 行動 が 発生 する こと からも(間接的 な 形 では ある が) 裏づけ られる。

 表面 的 に 見る 限り、 症状 や 異常 行動 は 悪い もの で ある が、 それ が、 自分 を 高めよ う と する 契機 に なる と すれ ば、 結果的 には 前向き に なる うえ で 役立つ からで ある。

 内心が、 単に 本心 の 否定 に 留まる もの で ある と すれ ば、 内心 にとって、 前向き に なる のに 役立つ こと は 失敗 と なる が、 もし 本心 と 協同 し て 働く という 役割 を 密か に 持っ て いる と すれ ば、 それ は まさに 予定 通り の もの で ある こと に なる。  

 もし 内心 が 積極的 な 役割 を 担っ て いる と すれ ば、 個人 は、 その 誕生 に際して、 その 一生 の 中 で、 本心 の 中 から 引き出し たい と 願う( あるいは、 その つもり で いる) 能力 や 徳性 を 最も 効果的 に 引き出す ため の 手段 として 内心 を 活用 する のでは ない か、 という 推定 が 可能 に なる。

 現実 の 生活 を 見る と、 自分 の 意識 に 受け入れ られ ない ほど 大きな 幸福 に 直面 する たび に、 内心 が その 否定 を して、 矯正 す べき 症状 や 行動 を 作りあげ て いる。 

それ に 直面 し た 意識 が、 そうした問題 点 に 速やか に 懲りれ ば、 目的 が 簡単 に 達成 できる こと に なる が、 実際 には そう では ない。 

意識 の 上 で 懲り ても、 内心 では 容易 に 懲り ない よう に なっ て いる からで ある( 笠原、 一 九九 七年)。 

その せめぎ 合は、 近視眼的 に 見れ ば、 内心 の 勝ち と なる。 

しかしながら、 人間 の 歴史 と 同じく、 きわめて 長い 目 で 見れ ば、 結局 は 本心 が いつも“ 辛勝” を 収め て いる こと が わかる。 

そして、 それ が、 能力 と 徳性 の 漸進 的 開花 につながる ので ある。

(中略)

また、 もし 完璧 な 能力 や 徳性 が 人間 に 内在 し て いる ので あれ ば、 それ を 直接 に 発揮 しよ う と せ ず、 内心 という 複雑 な 仕組み を 作りあげる まで し て、 天文学 的 な 時間 を かけ て、 きわめて わずか ずつ 生物 に、 最終 的 には 人間 に それ を 行なわ行なわ せる のは、 なぜ なので あろ う か。 

その よう な 究極 的 疑問 を 含め、 真 の 意味 で 人間 を 理解 する ため には、 反応 や その 裏 に ある 抵抗 の 本質 を 解明 する こと が、 必要 不可欠 の 課題 と なる。 

そして、 その 糸口は、 われわれ の 身近 に 絶えず 存在 する ので ある。

笠原敏雄著「幸福否定の構造」(kindle版)より引用
……………………………………………………………………

私なりに要約すると次のようになります。



幸福否定は心の進化の中で、人の能力と徳性を漸進的に開花させるために積極的な役割を果たしている。

それは結局は本心がいつも“ 辛勝” を 収め て いる ことからもわかる。

なぜ完璧な能力や徳性の直接発揮をしようとしないのかはわからない。



結局は、進化において役割を果たしている(意味のある)ブレーキであるが、なぜそのようなブレーキを必要とするのかは不明であるということになります。

さて、私は2016.10.10記事「幸福否定が存在しない状況」を考えてみる」で、幸福否定の意義について次のように想像しました。

……………………………………………………………………

3 幸福否定の意義

1から、幸福否定という人類に備わっている心の原理は、人々の能力を無制限に発動して社会発展のスピードを高速にしないためのコントロール装置であると考えます。

そして2から、近代現代になり社会発展のスピードが増したので、幸福否定の原理が発動して、多くの人の能力を抑制する方向で働いていると考えます。

この思考から、幸福否定の意義を次のように考えます。

ア 人類社会の危機に対する高度な防衛装置

常時人類全員が持てる力を100%発揮していると、外部に由来する危機に直面した時、それまで以上の力を発揮できません。社会としての余力がありません。硬直しています。しなやかさがありません。

しかし、幸福否定の原理で人の能力が十分に発揮できない社会では、危機に際して、それまで発揮できなかった力を余力として発揮できるようになる可能性があります。危機に対してし余力を備えておくことができます。しなやかな対応が可能です。

アリ社会では集団の中に働かないアリが一定パーセントいて、アリ数が減るとそれまで働かなかったアリが働きだして、集団の危機を乗り切るそうです。

同じような集団維持原理が幸福否定の原理であると考えます。

戦争になると精神病が少なくなることが、この思考を裏付けると思います。

イ 進化スピード調整装置

もし幸福否定原理がなければ、人類社会は超高速で発展してしまいます。

短時間で人類社会が発展してしまうということは、現在の特定環境に人類が強く適応してしまい、環境変化があった時、後戻りして対応することが不可能になってしまう可能性があるということです。

幸福否定の原理は種の進化スピード調整装置であり、人類のむやみなガラパゴス的進化を予防する装置であると考えます。

2016.10.10記事「幸福否定が存在しない状況」を考えてみる」から引用
……………………………………………………………………

この想像の適格性の程度は別にして、「なぜ完璧な能力や徳性の直接発揮をしようとしないのか」という疑問に対応する解答例にはなると考えます。

風景

2016年10月30日日曜日

自分事としての幸福否定と興味対象物としての幸福否定

思考を継続して深めていくプロセスの中で、「あの頃自分はどのように考えていたのか?」と自分の思考経過を思い出せなくなることが時々あります。

そこで、塾考した結果ではありませんが、思考の分岐点にきている現在の状況をメモしておきます。

1 笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)に興味を持った理由

1 自分のグズを退治するのに有効活用できそうな理論だと直感したから(最初の興味)

2 「反応」を指標にして「自分が気が付かない『本当の興味』」を見つけられるから(学習途中から生まれた第2興味)

3 心の機構「幸福否定」が顕著に発現して個人や社会に影響を及ぼすのは現代社会特有であり、原始社会や古代社会では心の機構「幸福否定」の機能の様子が大きく異なるに違いないと気が付いたから(学習現時点で生まれた第3興味)

1グズ退治と2指標としての反応利用は自分事としての興味です。

1グズ退治では感情の演技という手法の実践が課題となります。

2指標としての反応利用の手法は自分で開発することが課題となります。

3幸福否定と人類社会発展史との関係は自分事としての興味ではなく、対象物としての興味です。

対象物である3幸福否定と人類社会発展史との関係の興味は次の2つに大別されます。

ア 原始・古代社会における心の機構「幸福否定」の機能の様子

イ 現代社会で発現している幸福否定現象が備えている条件

2 客観的対象物(興味対象)としての幸福否定の検討方法

例として 「締め切り間際にならないと手が付けられない」現象が発生するために必要な社会条件は何か? を考えてみます。

少し考えただけでも、次のような社会条件が必須だと思います。

・社会が本人(個人)に課題を与えている状況が存在する。(宿題、試験、仕事、…)

・本人がその課題を自分事として考えている。(個人で達成すべきと社会も本人も考える)

・社会も本人も、本人に自主性(独立性)が存在していることを前提としている。

・社会も本人も、その課題を達成できる能力、気力、道具、時間等が存在していることを前提としている。

・  (ほかにもいろいろな条件があると考えます)

このような思考をすると、社会が個人に課題を与えることは現代では一般的ですが、原始・古代社会では稀(※)だと考えると、「締め切り間際にならないと手が付けられない」現象の発生は原始・古代社会では稀であったことを導くことができます。

※ 未開社会における成人儀礼など

同時に原始・古代社会では社会が個人に課題を与えることは稀ととらえて本当によいものか、検証することが必要になります。

旧石器時代人が槍の穂先となる黒曜石を長野県や福島県や山形県まで出向いて集め、それを加工し、下総台地の縁から獲物を崖下に追い落として仕留めていた時代、集団(社会)が個人にどれだけ課題を課していたのか、その専門知識が世の中にあるならば得たいと思います。

もしかしたら、現代の未開社会研究でそのような知識が存在するかもしれません。

この例の検討から、現代社会における幸福否定現象について社会の側面から検討すると、その現代性が浮き彫りになると思います。

その情報を原始・古代社会における検討と問題意識の深化に有効活用できると考えます。



2016年10月28日金曜日

幸福否定学習から派生する興味

このブログでは自分のグズ緩和に資することを目的に、笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をしています。

その本来学習目的からは大脱線してしまいますが、現時点における自分のメイン興味である考古歴史と幸福否定学習が結びつきつつあるので、メモしておきます。

これまで、幸福否定という心の機構が存在していて、多くの現代人がそのマイナス影響を被っていることを学習しました。

誰でもそれを実感できる事象として、締め切り間際にならないと物事に手をつけられないことや片付けができないこと、あるいは自分がしたいことを自分の意思だけで行うことの困難性などがあることを学習しました。

この幸福否定が強くなると自分の成長や進歩を否定し、自他の愛情を受け入れず、反省を拒否し、最後には自滅の方向に進み、文字通り幸福を否定する結果になることを学習してきました。


さて、このような心の機構が人類の歴史で同じように発現して、同じように社会に影響を与えてきたとは思われないと考えます。

幸福否定という心の機構そのものは、全く同じものを原始人、古代人も現代人も備えていると考えます。

しかし、その心の機構が発現して社会に与える影響は時代によって大いに違っているにちがいないと考えます。

現代人は産業資本主義社会に住んでいて、社会から締め切りのある仕事を誰でも強制されます。

現代人は驚くほどの強烈なスピードで物が集まってしまう環境に住んでいます。社会が人に片付けを強制します。

現代人は余暇が増え続け、趣味や自分がしたいことを持つように社会から強制されています。



幸福否定の身近な事例は、よくよく考えると現代社会だから発現している現象であると感じられてしかたがありません。

秦の始皇帝の時代には官僚組織ができていたということですから、その時代のごくごく一部の支配層は計画的な発想で行政をしています。

そのような人々は「締め切り」とか「片付け」とか「自分のしたいこと」などが課題となり、場合によっては幸福否定現象が発現していたかもしれません。

しかし、それは社会全体からみればほんのわずかの人々に起こった事象です。

日本でいえば、奈良時代には全国に計画的道路網が完備され、官僚組織も整備されていたのですから、社会上層のごくごく一部の人は「締め切りまでに仕事をする」とか「掘立柱建物の中の什器を整理整頓する」とか「趣味で文芸や美術に興味を持つ」とかが課題になったとは思います。

そのような人々は現代人と同じ幸福否定現象が発現していたかもしれないとは思います。

しかし、それは日本社会全体からみればほんの一握りの人に発現した事象だと思います。


さらに時代を遡れば、旧石器時代とか縄文時代ではそもそも「締め切り」とか「片付け」とか「自分のしたいこと」という概念が社会に存在しなかったと思います。

現代人に発現する幸福否定現象が起こる余地が存在しなかったと想像します。


要約すると、笠原敏雄先生が発見した心の幸福否定現象の万人発現は現代産業資本主義社会特有といってもよいほどの現代性をそなえた事象であると想像します。

この想像から、旧石器時代人や縄文時代人の心がどのようなものであったのか、大いに興味を持ちます。

旧石器時代や縄文時代の狩の様子などについて発掘調査報告書の詳細分析を趣味活動でおこなっていますが、この分析の中にもし「心の様子」が少しでも入れば、大いに面白いことになります。

旧石器時代人も縄文時代人も現代人と同じ心の機構「幸福否定」は備えている。

しかし、「幸福否定」機構の機能の様子は現代人とまったく異なると空想します。

風景

2016年10月23日日曜日

Kindle版「幸福否定の構造」の入手

Kindle版笠原敏雄著「幸福否定の構造」を入手しました。

現在進めている笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習参考にしたいと考えています。

Kindle版笠原敏雄著「幸福否定の構造」の表紙

Kindle版をモニター4画面に広げて文字を大きくすると、記述の全体像を横目で見ながら読むことができますので、自分の好むパソコン読書ができます。

Kindle版笠原敏雄著「幸福否定の構造」の4画面表示

Kindle版笠原敏雄著「幸福否定の構造」の4画面表示

pdfで電子化した図書はページの姿が残ってしまい、その扱いで若干の難がありますが、Kindle版はページの姿が残っていないので文章そのものの全景を即座に見渡すことができ、より効率的な読書ができます。



2016年10月22日土曜日

損している「幸福否定」

このブログでは笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習の様子をメモしています。

幸福否定の原理発見は素晴らしいことだと思います。

学習すればするほど興味が深まります。

1 幸福否定が受け入れられない理由とその意味

さて、著者がたびたび書中で書いているとおり、この学説は世の中にほとんど受け入れられていないようです。

心理療法専門世界、心理学専門世界のことは全くの門外漢なのでなんとも言えませんが、「幸福否定」学説は専門世界で受け入れられていないようです。

その最大の理由は著者がやはり何度も繰り返し説明するように、専門家を含めて「反応」が発生(存在)するからだと思います。

そして専門家を含めて人は自分自身に発生する「反応」を気軽意識的に客観化できないのですから、なおさら「幸福否定」の理解が進みません。

しかし、そもそもの話として「幸せを拒む病」のなかに「反応」を利用した「本当にしたいこと」探求方法が出ているくらいです。

ですから、「幸福否定」学説に「反応」を示す社会の様子は、社会が「幸福否定」を「本当のこと(本当はそれが正しいこと)」と捉えていると理解することができます。

現状で「幸福否定」学説が社会に受け入れられない状況は「幸福否定」が「本当のこと」であるからに違いないと思います。

「幸福否定」が「本当のこと」なのですから、いつの日にか「幸福否定」学説サイドの態勢が整えば、「幸福否定」学説が一気に社会に受け入れられると想像します。

2 「幸福否定」が損している点

上記1は「幸福否定」学説と社会に関わる本質的問題です。

それとは別に、素人ながら「幸福否定」が損していると考える事柄がありますので、メモしておきます。

「幸福否定」という名称、表現がこのノーベル賞級学説の理解普及を妨げていると考えます。

私は「幸福否定」という表現より「したいこと否定」という表現の方が心の現象をより正確に表現しているように思えてなりません。

心の病気に侵された人がその病気に打ち勝ち、健康を取り戻すことは確かに幸福になることです。

しかし、幸福という言葉には価値観が含まれます。

過去から現在まで哲学などの諸分野で論じられた幸福論は膨大なものがあります。

新興宗教なども幸福という言葉を使います。

ですから「幸福否定」とい言葉を聞くと、その背後にどのような価値観があるのか気になります。

心の仕組みのなかに自分のしたいことを否定する機構があると説明されれば単純に納得できる場面でも、「幸福否定」ということばに向かい合うと身構えてしまいます。

「幸福否定」という名称、表現がそれの理解を妨げていて、損をしていると考えます。

風景



2016年10月10日月曜日

幸福否定が存在しない状況を考えてみる

最近ノーベル賞の発表がありましたが、門外漢市民の感想ですが、心理療法家笠原敏雄先生が発見した「幸福否定の原理」はノーベル賞受賞に十分値するものと思いました。

専門家を含めて圧倒的多数の人類が気が付くことができない(気が付くことに強い抵抗が生じる)幸福否定の原理を、笠原敏雄先生が発見したことは人類的快挙だと、文字通り考えています。


それはさておき、この記事では、幸福否定の原理が存在しない状況を想定するという思考実験を行い、幸福否定の人類史的意義について考えてみました。

1 幸福否定という心の原理が存在しない場合の状況推定

1-1 幸福否定の説明

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の「まえがき」では幸福否定を次のように説明しています。

……………………………………………………………………
① 自らの「無意識の一部」が、自分が幸福の状態にあることを極度に嫌い、その幸福感を意識にのぼらせないような策を講ずる。

② それと並行して、自分が幸福ではないことを自分の意識に言い聞かせるために、目の前に問題を作りあげる。

③ その結果として生み出されるのが、心身症や精神病という病気であり、行動の異常である。

この一連のしくみをつかさどる「無意識的な意思」のことを、私は“幸福否定”と呼んでいます。
……………………………………………………………………

1-2 幸福否定の原理が存在しない状況の想定

幸福否定という心の原理が存在しない状況を、上記引用文を改変して記述してみます。

なお、幸福という言葉は抽象的で多義的ですから、これを「自分がしたいこと」と言い換えます。

① 自らの「無意識の一部」が、自分がしたいことをしている状態にあることを嫌うことはない。

自分がしたいことをしている達成感や満足感をいつも意識することができる。

② 自分がしたいことができないと自分の意識に言い聞かせることはないので、自分自身が目の前に問題を作りあげることはない。

③ 自分が目の前の問題をつくりあげ、自分の邪魔をすることはないので、それに起因する心身症や精神病という病気や行動の異常は存在しない。


幸福否定の原理が無くなると、具体的には次のような状況となります。

●誰でも、締め切り間際にならなくても、計画的に物事に手をつけることができる。

●誰でも、片づけることができる。

●遅刻魔がいなくなる。

●誰でも、プラス思考ができる。

●誰でも、自分がしたいことが実現できるようになる。

幸福否定の原理が無くなると、次のような現象が発生します。

●誰でも、課題の解決を迅速に行う。

●誰でも、自分の進歩や成長を肯定する。

●誰でも、自他の愛情を受け入れる。

●誰でも、反省を避けようとしない。

このような空想をしてみると、幸福否定が無い社会は一種の理想社会であり、人々の能力は最大限発揮され、社会の進歩発展スピードは超高速になると考えます。

2 幸福否定という心の原理が人類史のいつから問題になったか?社会的に顕在化したか?

幸福否定という心の原理は人類創成の時から備えている属性だということは直観できます。

しかし、その属性がえぐり出されて白日のもとの晒され、とうとう笠原敏雄先生によって発見されることになるということは人類史の中でも極最近の出来事になると思います。

門外漢の素人思考からは、工業化社会が成立して以降が幸福否定が社会問題化し始めた期間であるような気がします。

縄文時代人は「締め切り」とか「片付け」とか「遅刻」とか「プラス思考」とか「自分がしたいこと」とかに関する社会要請は極めて虚弱であったと考えます。

ですからに幸福否定が社会的に顕在化することはなかったと思います。

原始時代は、恐らく心身症や精神病や行動異常は現代と比べて格段に少なかったと想像します。

このように考えると、人類の急速な社会発展が原因となり、近代現代になってはじめて幸福否定という属性の発動が顕著になったと想像します。

3 幸福否定の意義

1から、幸福否定という人類に備わっている心の原理は、人々の能力を無制限に発動して社会発展のスピードを高速にしないためのコントロール装置であると考えます。

そして2から、近代現代になり社会発展のスピードが増したので、幸福否定の原理が発動して、多くの人の能力を抑制する方向で働いていると考えます。

この思考から、幸福否定の意義を次のように考えます。

ア 人類社会の危機に対する高度な防衛装置

常時人類全員が持てる力を100%発揮していると、外部に由来する危機に直面した時、それまで以上の力を発揮できません。社会としての余力がありません。硬直しています。しなやかさがありません。

しかし、幸福否定の原理で人の能力が十分に発揮できない社会では、危機に際して、それまで発揮できなかった力を余力として発揮できるようになる可能性があります。危機に対してし余力を備えておくことができます。しなやかな対応が可能です。

アリ社会では集団の中に働かないアリが一定パーセントいて、アリ数が減るとそれまで働かなかったアリが働きだして、集団の危機を乗り切るそうです。

同じような集団維持原理が幸福否定の原理であると考えます。

戦争になると精神病が少なくなることが、この思考を裏付けると思います。

イ 進化スピード調整装置

もし幸福否定原理がなければ、人類社会は超高速で発展してしまいます。

短時間で人類社会が発展してしまうということは、現在の特定環境に人類が強く適応してしまい、環境変化があった時、後戻りして対応することが不可能になってしまう可能性があるということです。

幸福否定の原理は種の進化スピード調整装置であり、人類のむやみなガラパゴス的進化を予防する装置であると考えます。


2016年10月3日月曜日

眠気、嫌気、興味消沈、お茶お菓子を重要指標として活用中

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習を始めて、細々としたものですが興味は途切れないで深まっています。

この学習の中で、生活上大きな成果を得たと実感していることがあります。

それは、自分に発生する次のようなマイナス現象を重要指標として捉えるようになったことです。

………☆………

これまでマイナス現象と考えていたこと(実は重要指標)

●眠気

●嫌気

●興味消沈、意気消沈

●些事に逃げる(読みたくもない新聞を読む、飲みたくもないのにお茶にする、食べたくもない菓子を食べることによる生活場面の中断)

………☆………

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習を始める前は、これらのマイナス現象が発生すれば、それそのものは自然の摂理であると考えていました。

自然の摂理として発生したマイナス現象は仕方がないので受け入れざるをえないと考えてきました。

受け入れた後、その現象に対して、対症療法的対応に移りました。

強引に頑張ってその生活場面を継続したり、あるいは一端退いて(休息等)再度その生活場面にチャレンジするなどです。

ところが、幸福否定の学習をすることによって、自分に発生するマイナス現象は自然の摂理としてすなおに受け入れるべきものではなく、自分にとって重要場面に遭遇したことの指標として捉えるべきものであることに気が付きました。

「眠気、嫌気、興味消沈・意気消沈、些事に逃げる」はすなおに受け入れるべきものではないことに気が付いたのです。

「眠気、嫌気、興味消沈・意気消沈、些事に逃げる」は人工的、意図的につくられたものであることに気が付いたのです。(それも、自分自身がつくっていることに気が付いたのです。)

自分にとって重要でない場面ではこれらのマイナス現象は発生しないことから、マイナス現象が人工的・意図的なものであることを逆から理解できます。

したがって、マイナス現象は困ったことではなく、自分が成長できる場面に到達できたことを知らせる指標であり、むしろプラスのできごとであることに気がつきました。

「眠気、嫌気、興味消沈・意気消沈、些事に逃げる」現象が発生すれば、その瞬間に、それを発生させた原因であるところの自分にとって大切なことが何であるかを考えることになりました。

実務生活上の重要ポイントを知ることができるようになったということです。

学習成果の一つが生活実務面に現れた(定着した)ことになります。

もし、若かりし頃、この知識があったら、人生は大幅に変わっていたかもしれない…。


なお、成長すべき重要場面で発生する眠気等と、睡眠不足など肉体的精神的疲労による眠気等の区別は、直観的にかなり明瞭にできます。

秋の空


2016年10月2日日曜日

キッズアニメ インサイドヘッド

飛行機の中で偶然キッズアニメ「インサイドヘッド」(原題 Inside Out)を見ました。ディズニー作品です。

小学校低学年の孫がこのアニメを親と一緒に見ているのですが、その時「一応理解しているみたい」と親が私に教えてくれた心理アニメです。

飛行機画面のインサイドヘッド表紙

小さな女の子ライリーが引っ越しを契機に生まれる葛藤体験を、心の中の5つの感情「ヨロコビ」「カナシミ」「イカリ」「ムカムカ」「ビビリ」の活動を通じて描いたものです。

ストーリーの紹介はここではしませんが、心の成長を「特別な思いで」(感情の島)の崩壊と新たな感情の島の復活で象徴しています。

最初の5つの感情の島

復活したたくさんの感情の島

また同じことを5つの感情がライリーを動かす操作盤の大きさ(機能の多さ)で表現していました。

生まれた時の操作盤(スイッチ1つ)

ストーリーが始まるころの操作盤(多くのスイッチ)

ストーリーが終わった時の操作盤(親をやり込める言葉まで発することのできるスイッチまである極めて多機能な操作盤)

ストーリの途中で表れる感情体験記憶倉庫崩壊の様子



感情という大変抽象的な概念をアニメにして、小学校低学年の子どもにも理解できるエンタティンメントにしているので、驚きです。

このアニメを見ながら、笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の中心概念である幸福否定をアニメ化したら、幸福否定を理解する人が飛躍的に増えるのではないだろうかと想像しました。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では、恐らく専門家を念頭に置いて、幸福否定の概念を理解する人はほとんどいない、理解することが困難であると何度も記述しています。

幸福否定の概念を専門家に理解共鳴してもらうのは困難なのでしょうが、素人の自分からみると、インサイドヘッドのようなアニメにして幸福否定概念を一般人に判りやすく示すと、理解者が増えると考えました。

幸福否定の概念を専門家やディレッタントだけではなく、一般人や子どもに教えることも大切だと考えました。


2016年9月21日水曜日

2番目の幸福

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習を始めるなどして、趣味活動において自分が本当にしたいことが何であるか、うすうすわかってきたような気がしています。

その本当にしたいことをすると睡魔などの顕著な反応がうまれることは何度も記事にしました。

この記事では睡魔という肉体に生まれる反応ではない、別のあるいはもっと高級な内心抵抗について考えてみます。


1 趣味活動以外に興味がそらされる現象

最近、気が付くとドラマティックな社会的出来事に関するテレビ視聴時間が増え、趣味活動が沈滞してしまっていることに気が付きました。

恐らく過去20年以上は食事時にその場にあるテレビでニュースを何気なく見る程度で、テレビ視聴時間はほとんどない生活を送ってきています。

ところが都民でもないのに、都議選や豊洲問題のテレビ番組に釘づけになっている自分がいることに気がつきました。

この年になってはじめて社会問題の大切さとか面白さに開眼したということではありません。

また、都議選とか豊洲問題などよりはるかに重大でドラマチックな社会問題が現在他にも、過去にも山積していますから、この問題に特段こだわる理由はありません。

ありていに言えば、テレビ視聴に時間を消費する、逃避的自分がいたのです。

そのように気が付いてみると、趣味活動(ブログ「花見川流域を歩く」や本ブログの活動)が佳境になりつつあるので、それを嫌って、内心が快楽提供作戦を仕掛けたのだと理解できます。

思考努力を行う活動(創造的活動)ではなく、外から提供してくれる社会ドラマ中継に自分の興味が誘われ、まんまとそれに引き込まれてしまったということです。

内心恐るべしです。

過去人生にも同じように、本当に大切な興味(仕事)が佳境に差し掛かった時、それ以外の社会的関心事が突然生まれ、結果として本当にしたいことが阻害されたことが何度かあると、ふりかえることができます。

趣味活動の時間が減少し、分断されれば、当然のことながら思考(発想)が弱まり、継続性が失われ、発展できなくなります。

テレビ視聴に時間を割かない生活に戻ることは、自分の意思で即時に実現できると考えます。

2 趣味活動で材料出尽くし感が生まれ、本当にしたいことの継続が阻害される

本当にしたいことがある程度育つと、あるきっかけでその興味を育て深めることをなぜか止めてしまうことがあります。

そのようなパターンが自分にあります。

多くの場合、深まった興味に関する貴重な情報、多くは専門図書を入手して、これから本格的に検討しようするその瞬間に、材料出尽くし感みたいな感情が生まれてしまいます。

一安心してしまい、いつでもこの検討はできると余裕がうまれ、その興味に対する取り組みが事実上終わってしまいます。

同時になぜか別の項目に興味が移行します。

それではだめだとわかっていながら、そうなるのですから不思議です。

思考努力(創造的活動)を嫌う内心が仕掛けた高級な抵抗の一種であると考えます。

今後、趣味活動で「いざ鎌倉」という重要ポイントで材料出尽くし感が生まれることが必ずあります。

その時、その感情に従順に従うのではなく、その材料出尽くし感をかみしめ、本当にそれが自分が欲する感情であるのか、立ち止まってみたいとおもいます。

3 2番目の幸福の湧出

以上1のテレビ視聴、2の材料出尽くし感による興味の別項目への変化はつぎのような現象として理解することができます。

本当にしたいことの実現が近づくと、内心がそれより低次の興味を提案して、本人をそちらの方に引っ張ってしまう現象。

もし、本当にしたいことを「1番目の幸福」、本当にしたいことより低次のしたいことを「2番目の幸福」と名づけると、この現象の説明が次の記述で行われていると考えることができます。


笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の小見出し「「いちばんの幸福」は常に隠される」の記述
……………………………………………………………………
本章では、幸福否定と呼ぶ心の動きが、おそらく人間全員に、しかも生まれながらにあるらしいことを説明してきました。

繰り返しになりますが、これは、自らの向上に結びつくはずの喜びを否定しようとする、このうえなく強い意志のことです。

言うまでもないでしょうが、幸福否定といっても、すべての幸福感を否定するわけではありません。

ふつうは自分にとって大きな幸福だけが内心によって否定されるのです。

いわば2番目以下のうれしさは否定されないため、それぞれのうれしさがひとつずつ繰り上がり、本来は2番目に位置づけられるはずのうれしさが、意識の上では、本人にとって最大のうれしさのように感じられるわけです。

ですから、ほとんどの人は、喜怒哀楽を比較的ふつうに示しますし、楽しみを否定することも、まずありません。

そのため、おいしいものを食べたり、旅行に出かけたりする時には素直に喜びますし、生活に潤いを与えてくれる趣味も、いくつかはもっているはずです。

しかし、否定された大きな幸福は、心の奥底に隠されたままで、意識の上に表出することはありません。

よほどの努力をしない限り、真の幸福は、意識の表舞台に立てないまま生涯を終えることになるわけです。
……………………………………………………………………

人は、2番目の幸福が絶えず湧き上がってくるようになっていて、それに染まるような心的力がたえず働いているのかもしれません。

もし2番目の幸福に真剣に取り組むようになると(創造的な思考が発生すると)、3番目の幸福が沸き上がるのかもしれません。

1番目の幸福、2番目の幸福という表現は幸福(したいこと)が階層構造になっていることを示しています。

玉ねぎの皮みたいな階層構造の中に1番目の幸福もあるような気がします。

絶対的で不動の1番目の幸福があるとは考え難いです。

2016年9月19日月曜日

もしかしたら 超常現象

ずっと以前に所属したある組織で、次のような状況を観察して不思議に感じたことがあります。

もしかしたら超常現象かもしれないと、当時感じました。

(その当時超常現象という言葉を自分は使っていませんでしたが、その人の心理が機械を操作したと直観したのでした。)

新品パソコンを購入すると、それが壊れることがあるのですが、その確率が通常よりかなり高い人がいるのです。

その人は仕事熱心ですが、心の底ではその組織に忌避感を感じているようでした。

私は、根拠はありませんが、その人の心がパソコンという機械に影響を及ぼしていると直観しました。

その人が無意識的にパソコンを壊すような操作をしているということも否定できません。

しかし見かけ上はその人のパソコン操作に起因しないで、その人のパソコンがよく壊れるのです。

私の主観的な感想ですから、本当にそうであるかどうかわかりません。

私のひねくれた思考であると結論付けても反論はできません。

しかし、その当時はそのような直観を強く持ち、今までその直観を否定するような情報はありません。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)に出てくる超常現象事例と、私が観察した事例と、その確からしさのレベルがよく似ていると感じました。

機械の不調というような超常現象は、日常生活でいたるところでいつも発生しているのかもしれません。

あるいは本人の意識できない無意識的操作により機器を異常に至らしめるという超常現象似の非超常現象が世の中に充満しているのかもしれません。





2016年9月17日土曜日

超常現象 感想つづき

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)に超常現象の記述があり、次の記事で紹介して、その感想を書きました。

2016.09.15記事「超常現象」参照

この記事はその感想つづきです。

「内心の抵抗と超常現象」という小見出しの中で出てくる超常現象の例は次のようなものです。

●テープレコーダー、光磁気ディスク、ICレコーダーの音声に大きな静電音が入る、音量が極端に小さくなる、再生で聞き取れない。

●ICレコーダで録音したはずのものが再生できないで、次にとぶ。

●スカイプ(WEB)で電子音が入る、音量が低下する、音声が途切れる、映像が停止する、接続が切れる。

いずれも、著者とクライアントとのコミュニケーションに伴って起きた現象です。

コミュニケーションの過程で、クライアントの内心が起こした抵抗の一環であると考えられます。

ある状況が整って、その言葉を聞けばクライアントが自身の能力や徳性に目覚めてしまうような時に、内心がそれを妨害して音声機械を操作して聞かせないようにするという現象として理解します。

著者は「このような事例からすると、超常現象は、かなりの規模のものであっても、実は誰でも自在に起こすことができると考えたほうがよさそうです。」とさらりと述べています。


感想

・意識と内心との葛藤が激しくなれば、この現象は一般的に発生すると理解します。

・具体的には、心理療法家が介在するような状況(第3者がサポートして、内心を追い詰めるような状況)で発生する現象であると理解します。

・意識に対する情報遮断の手段として発生する現象であると理解します。

・ある状況が整って、その言葉を聞けば本人自身がその能力や徳性に目覚めてしまうような時に、内心がそれを妨害して音声機械を操作して聞かせないようにするという現象ですから、極めて個人世界の出来事です。

・超常現象として音声機械操作があっても、社会に対する影響はほとんど生じないと考えられます。

・具体的超常現象が社会で白日の下にさらされることは少なく、また興味の対象にはならないと考えます。

・幸福否定の意思が弱まれば、生じない現象であると考えます。

早朝 光る雲






2016年9月15日木曜日

超常現象

このブログでは笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)を学習していますが、超常現象とか念力現象という言葉が自然に出てきています。

超常現象が幸福否定とどのようにかかわるのか、怖いもの見たさみたいな興味を持ちながら、その部分を読んでみました。

「内心の抵抗と超常現象」という小見出しの部分を次に引用します。

……………………………………………………………………

ひとつは、心理療法でのやりとりを、クライアント自身が後で聞き直すために録音していると、肝心な場面で大きな静電音が録音されたり、なぜか音量が極度に小さくなったりして、再生した場合に聞きとれなくなるという現象が頻発することです。

録音媒体は、時代によって異なり、最初は磁気テープでした。

次が光磁気ディスクで、最近はICレコーダに変わっています。

にもかかわらず、同質の雑音が発生するのです。

特にICレコーダでは、さらにふしぎな現象も起こります。

たとえば、録音されていたはずなのに、再生しようとすると別の日の録音にとんでしまうなどの現象です。

最近は、遠方の方がたの心理療法をスカイプ(インターネットを介したビデオ通話)で行なうことも多いのですが、その場合にも、肝心な場面で、多種多様の電子音が入ったり、音量の低下が起こったり、音声が途切れたり、映像が停止したり、場合によっては接続が切れてしまったりするという現象が頻発します。

特定の話題に入ると、その瞬間に起こり始めるので、そのことを事前に説明していなくても、むしろクライアント側がその関係に気づいて、この話の時にはいつも雑音が入るので、このことは重要なのだと思います、などと自分から言い出すこともあるほどです。

ここでは、明らかな念力現象が、しかも多くのクライアントで頻繁に発生しています。

このことは、超常現象としては、きわめて異例なことなのです。

こうした現象は、それほど重要な問題を扱っていることの現われと考えるべきなのでしょう。

その中でも最も興味深いのは、録音しながら行なったセッションで、同じ人物についてやりとりしている時に、眠りと雑音が、交互に繰り返し発生したという事例です。

反応は、互いに排他的に起こるという原則に忠実に従ったわけです。

その事例では、同じ人物について話している時に限って、強い頭痛が起こったり、一瞬のうちに眠ってしまったりを繰り返したのですが、録音テープを再生してみると、強い頭痛が起こっていた時にはテープに大小の静電音が入っており、やりとりが全く聞きとれなくなっていたのに対して、眠っている聞には、静電音は全く入っていなかったのでした(笠原、2000年、第4章)。

このことから、眠りと雑音の発生は、同じ動機から作りあげられたものと考えざるをえなくなります。

このような事例からすると、超常現象は、かなりの規模のものであっても、実は誰でも自在に起こすことができると考えたほうがよさそうです。

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内心(無意識)が意識を妨害し、欺いて、なおかつその妨害や欺きを場合によっては隠れて行うのが幸福否定現象であると理解します。

その幸福否定現象つまり、内心の妨害欺き行為が肉体の範囲を超えて客観的空間にも及ぶ場合があり、その場合を超常現象という言葉で表現できると理解しました。

これと似た体験として、電話で自分あるいは相手が窮地に陥るような会話になった時、電話が切れたり、音声が聞き取りにくくなった経験は何度もあります。

その時自分あるいは相手が無意識的に電話を切ったり、聞き取りにくいように聴覚や発声の制御をしたに違いないとは理解していました。

超常現象は、このような体験、つまり自分あるいは相手が行う肉体操作ではなく、客観的に存在している機械を直接操作するという現象です。

この超常現象の存在は書物(論理的記載)からではなく、体験的に確かめるべき対象であると考えます。

2016年9月11日日曜日

グズ解消法

このブログを開設して幸福否定の学習をしている目的は自分のグズを少しでも解消しようという点にあります。

幸福否定の学習をして、感情の演技の真似事をはじめて、次のような感想が生まれましたので、メモしておきます。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)を読み進めて、感情の演技の効果は本人には自覚が生まれないような状況、劇的な解決とはならない状況、一進一退(好転の否定)を繰り返す状況が書かれています。

そして、「意識で納得できる心理的原因は無意味」という小見出しで次のような重要な指摘がされています。

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私の経験では、真の意味での心理的原因が意識にのぼった場合、その瞬間に、心身の状態に多少なりとも変化が起こります。

また、再発もしにくくなり、能力の発揮や人格の向上などもついて来るのがふつうです。

ところが、原因を探り当てたという実感はほとんどありません。

それは、本人(の内心と、それに踊らされた意識)がそれを否定し続けてきた結果ですから、当然のことでしょう。

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この文章は心理療法を必要とするような心身症等を対象に書かれた文章ですが、この原理はグズという症状に対しても全く同じように考えてよいと思います。

自分がグズを改善したいとい考え、感情の演技など行うのですが、その心理的効果を自分の意識が直接観察するのは困難なようです。

ただ、グズが改善すれば、客観的には生活が改善されるのですから、自分の場合は趣味活動の効率化とか品質向上が見られるのですから、後から、間接的に観察できると考えます。

感情の演技実験で趣味活動において、自分の「本当にやりたいこと」をある程度絞ることができたと感じています。

その「本当にやりたいこと」に、各種もっともらしい理屈をつけて着手しない自分がいることがわかりました。

これからは「本当にやりたいこと」を絶えず実施する機会を設け、抵抗があれば、その分だけその事柄が重要である逆証と考え、「苦しみ」の時間を繰り返し持ってみたいと思います。

「本当にやりたいこと」に年に1回気がついて、その時チャレンジして挫折するというこれまでの状況と、月に1回チャレンジして、苦しいけれど続けるという状況を比較すると、後者の方が「本当にしたいこと」が実現し出す可能性が高まると確信できます。

感情の演技ではその真剣度がその効果に大いに影響すると指摘されていますが、それは「本当にしたいこと」を抵抗に遭遇してもめげずに続けるということに通じると考えます。

出来ないことは、出来るようにやってみる、出来るまでやってみる、継続してやってみるという常識的結論に対応する思考となりました。

ただ、常識的結論にも対応したということであって、大切なことは、幸福否定の学習を通じて反応(抵抗)に対処する窓が開いたということです。

反応(抵抗)に対処する窓がない状況で、「出来ないことは、出来るようにやってみる、出来るまでやってみる、継続してやってみるという常識」をいくら自分に言い聞かせても効果はほとんど無いような気がします。

花見川の浮島

2016年9月9日金曜日

人間の根源的幸福

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)では「創作活動と抵抗」という小見出しの中で、創作活動、あるいは未知や未踏の課題に取り組むことの喜びが人間であること実感できる重要な営みであり、それが根源的幸福であると述べられいます。

本心の本質がこの根源的幸福にかかわるものであり、それを全精力で否定しようとするのが内心の本質であるという構図を著者は設定しています。

その構図のうち、内心が本心を否定する、つまり幸福否定する状況を詳しく説明しているのが、この図書「幸せを拒む病」の要旨であると捉えました。

さて、内心が全精力を傾けて否定しようとする創作活動に関して2人の事例が紹介されています。

小林秀雄と中原中也の2人です。

小林秀雄の事例は2016.09.01記事「内心抵抗の見える化」で既に引用しました。

とても理解しりやすい事例です。

小林秀雄が創作の産みの苦しみ(内心の抵抗)で四つん這いになって這いまわったという逸話まで紹介されています。

中原中也の事例はざっと読むと、判ったような感じもします。

しかし、腑に落ちません。

書いてあることを間違っているとかという疑問はないのですが、中原中也の文章からくみ取るべき情報の意義が今ひとつわからないので、メモしておきます。

次に中原中也の事例紹介部分を引用します。

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創造の喜びとそれに対する抵抗から逃げる人たちが多いという事実については、小林秀雄の親友だった、昭和初期の詩人・中原中也が、二O歳の時に書いた日記(一九二七年一一月二五日付)の中で、次のように的確に表現しています。

常に人は自らで耕さなければならない!

すなわ他人を意識することは、夢を即ち生命を壊す。

私は、人と人との習慣的な同意を憎む!

これは、おおよそ次のような意味でしょう。

本来、生物たる人間は、自分の力で何かを創り出すようにできていて、それが生きる喜びになる。

ところが、現実にはそれを避け、人の評価や権威を基準にして、人に受け入れられやすい行動を起こす人たちが多い。

こうして習慣になったそのような行動は、互いに同意しやすいものの、生命の喜びに反している。

それでは、何のために生きているのかわからないので、私は、そのような生きかたを心の底から嫌う。

もちろん、人は、経済的に自立し、社会の中で受け入れられなければ生きていけません。

その一方で、「人はパンのみで生きるのではない」という特性が本来的に備わっているのも、まちがいないところです。

これこそが、動物にあらざる、人間独自の特性なのでしょう。

このように人間は、動物と違って、文化や芸術や科学などを何よりも(場合によっては人命よりも)尊重するという特性をもっています。

それは、探検的な性向という形でも現われます。

これらのことを人間がいかに重視しているかは、世界史をひもとけば、すぐにわかるでしょう。

エベレスト初登頂や新元素の発見など、実利的な側面から見るとどうということはないことが、人類史の中で非常に高く評価されるのです。

そのため、このような未知や未踏の課題にとり組むことの喜びは、自分が人間であることを実感させてくれる、きわめて重要な営みなのでしょう。

だからこそ、内心はこうした人間の根源的幸福を、全精力を傾けて否定しなければならないことになるわけです。

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要約すると次のようになると考えます。

1 人の評価や権威を基準にして行動していては創造活動にならない。生命の喜びに反している。(中原中也)

2 内心は人間の根源的幸福(創造活動など)を全勢力を傾けて否定する。(笠原敏雄)

自分の話ことばにすると次のようになります。

創造活動は人の評価や権威とは関係なく実行するべきものだ。(中原中也)そのような真に創造性を発揮するような状況が心に生まれたら、内心は全精力を傾けて否定することになる。(笠原敏雄)

私の疑問・違和感は中原中也が話していることがらと、内心の抵抗が結びつかない点にあります。

一般論として、社会(組織、集団)に浸かりこんでしまっては真の創造性が発揮できないかもしれないということは、創作を行う人はだれでも多かれ少なかれ感じると思います。

そのような一般論を中原中谷に言わせただけなら、それでよいのですが。

中原中谷が集団に浸かりこんでいたら十分な創作活動が出来ないことに気が付いた事例なのか、それとも内心の説明に関わる事例として紹介されたのか、不明であるという疑問です。

クズの花

2016年9月5日月曜日

怒りを治める方法と感情の演技の相似性

感情の演技を実践し始めて、次のような感想を持ちましたので、メモしておきます。

ずっと以前、20年以上前?、怒りを治める次のような方法を知ったことがあります。

ある相手に対して強い怒りが生まれた時、その相手が喜ぶことを考えてみるという方法です。

相手が喜ぶことを実際に実践すればなおさらのこと、実践しなくても、考えるだけで怒りが低減するという方法です。

生活の中で、この方法は大変有効です。

職業生活の中で生まれたある強い怒りをこの方法で静め、結果として関係先とのマイナス状況をプラス状況に劇的に転換できた体験があります。

この怒りを治める方法と感情の演技が心の在り方として相似しているように感じて仕方がありません。

怒りを治める方法と感情の演技の相似性

怒りを治める方法は一過性の現象、感情の演技は構造的現象という違いはありますが、心の操作方法は同じものであると感じてしまいます。

道にはみ出した花

2016年9月1日木曜日

内心抵抗の見える化

2016.08.25記事「睡魔の心理的原因を感情の演技で特定する実験 計画」で書いた通り、感情の演技実験を開始しました。

「ある感情の演技実験を行って、それをその日にブログ記事にする」という単純活動を想定していたのですが、実験するに従って背景理論の思考を深めたくなったり、実験結果の意味についても検討したくなりました。

実験結果の一通りのまとめはでき次第記事に書きたいと思います。

この記事では実験の中で頭をよぎった内心抵抗の見える化についてメモしておきます。

1 心の3層構造

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)で書かれている心の3層構造図解を自分なりに書中文章を追記して理解しやすくしてみました。

心の3層構造

2 感情の演技と内心抵抗の見える化

感情の演技に関する記述を書中のあちこちから抜き書きしてまとめて、感情の演技の特性を自分なりに把握します。

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うれしいという感情を中心に、素直な感情を作ってもらうのです。

感情の演技の場合には、抵抗が起こりやすくなるように、なるべく難しい条件を選んで行なうほうが効果的なのです。

それは、感情を作ろうとする努力を通じて、幸福に対する抵抗に直面させることこそが、治療に直結するからです。

反応とは、幸福を否定しようとする心の層である内心が、そうした感情を作らせまいとして、一瞬のうちに自分の体を操って作り出す現象ということになります。

そうした反応を押して、むりやり感情を作る努力を重ねることが、そのまま治療につながるのです。

そこが自己暗示と全く違うところです。

感情ができなければ治療に結びつかないのではなく、感情ができなくても、感情を作る努力を重ねてゆけば、自然に好転に向かうということです。

目的は、感情を作ること自体にあるのではなく、抵抗に直面することにあるからです。

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つまり、感情の演技とは反応(あくび、眠気、身体的変化)という肉体的客観現象の体験(観察)を通じて、内心の抵抗を見える化するということです。

感情の演技を繰り返すと治療効果があるという笠原敏雄先生の治験は、内心の抵抗が一定の秘匿性環境下でその機能を発揮していて、見える化するとその機能が弱まるという特性を物語っています。

さて、感情の演技という実験ではなく、実生活で反応が生まれた時、その反応を呼び起こした内心の抵抗が見えたと感得できれば(そのような思考を行えば)、内心の抵抗が弱まっていくと素人ながら思考します。

3 創作活動における産みの苦しみと内心抵抗の見える化

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)第3章の「幸福否定による現象② 自分の進歩や成長を嫌う」の中の小項目「創作活動と抵抗」を次に引用します。

自分の趣味活動は遊びではありますが創作活動であることは間違いありませんから、次の引用から思考を深めたいと思います。

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昔から“産みの苦しみ” という言葉があるように、作家や芸術家は、創作活動に際して苦しむことが知られています。

その苦しみは、一般に受け入れられやすい作品を作る時よりも、自分を満足させる作品を作る時のほうが、一般にはるかに強いものです。

それは、人に評価された時の喜びよりも、自分を心底から満足させることができた時の喜びのほうが、はるかに大きいためです。

著名な評論家だった小林秀雄が、旅館にこもって執筆している場面を、たまたま目撃したある文芸評論家は、後年、その経験を小林の妹に次のように伝えています。

書く人はみんな苦しみますよ。

でも小林先生の苦しみぶりは全くひどいですよ。

私はどこかの旅館で小林先生が仕事をしていらっしゃるところを、ちらりとみたことがあるんですがね。

部屋の中を四つんばいになって這いまわっていましたよ。

(高見沢、一九八五年、ニニ二ページ)

まさに産みの苦しみという形で、自分の体にそのような反応が自然に起こってしまったということなのでしょう。

もちろん、強い反応が出れば、それだけでその作品が優れたものになるという保証があるわけではありません。

とはいえ、妥協することなく、その反応を乗り越えて作品を作り出すことができれば、他人の評価はともかく、自分をうそ偽りなく喜ばせる作品になるのはまちがいないでしょう。

おおまかに言えば、反応から逃げて楽な方向へ向かうのではなく、反応が強く出る方向に進めばその分だけ、自分が心から満足できる作品に近づけることができるはずです。

現に、小林秀雄は、「苦しまなくては、本当の喜びはない」と語っていたそうです。

その言葉は、自分が本当にしたいことをしようとすれば、必ず苦しみを伴うという、長年の経験から生まれた確信なのでしょう。

内心が作りあげるものであるとしても、そのような関係があるのは確かだからです。

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小林秀雄は四つん這いになって這いまわって苦しんだ、つまり反応に苦しんだということです。

そしてその苦しみのなかで内心の抵抗をよく観察する(見る)ことによって、内心が秘匿環境下で抵抗を繰り広げる状況を狭めたのではないかと考えます。

小林秀雄の苦しみは、実は小林秀雄が自分の内心を見える化している姿であり、見える化することにより内心の抵抗を弱体化している姿であると考えます。

内心の抵抗に直面して苦しんだとき、その状況を客観視(甘受?)して、その状況に留まることができれば、さらにはその状況を繰り返すことができれば、内心の抵抗は弱体化するということであると素人思考します。

このように考えると、感情の演技の意義が大変大きなものであるとともに、感情の演技という実験知識を活用して、実生活の中で内心の抵抗を弱体化させるスキルの創出可能性も生まれます。

4 内心抵抗の見える化

自分自身の趣味生活における内心抵抗として睡魔という反応が存在します。

内心は睡魔という反応を肉体に生じせしめて、私が睡魔に耐えられなくなって趣味活動から離れるように仕向け、それにより、私が特定状況下では睡魔には勝てない意気地なし、弱虫であること、つまり「いわゆる自尊心の低い“自己像” が作りあげられます」。

そうして作りあげた自己像を見せる相手は、他人ではなく、あくまで自分自身なのです。

睡魔が発生するのは、娯楽的にパソコンに向かっているときには生まれません。

特定状況下でのみ生じます。

その特定状況をA状況と呼ぶことにします。

A状況とは例えば次のような状況です。

・単調で長時間の単純作業

・多要素を同時に判断するような複雑・煩雑な作業

・スキルがないのに高度なソフトを操作する場合

・専門知識がないのに専門資料を解読する場合

・素材(情報)が無いのに分析を始めた場合

・分析視点が不明確なのに分析を始めた場合

睡魔発生の真の原因がA状況であるのかどうか、不明ですが、いつも必ず睡魔発生の背景にA状況があります。

内心抵抗とA状況とが密接な関係にあることをこれからは絶えず意識することにします。

したがって、睡魔発生の場合、関連する具体的A状況を確認して、その状況の改善を図りながら作業を続け、睡魔と戦ってみると内心抵抗の見える化を促進できるのではないだろかと考えます。

単純に睡魔に耐えるだけではなく、反応に関係するA状況を特定して、その改善を図りつつ(つまり内心抵抗の存在を意識しつつ)趣味活動を続けてみると、内心抵抗の弱体化が図れるか、試してみることにします。

内心抵抗があった場合、その状況に踏みとどまり、その状況をある程度甘受してみる(意識してみる)ことが、直ぐに離脱する場合より良い結果を生むかどうか、試してみることにします。