2017年3月19日日曜日

ブログ記事更新終了のお知らせ

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習プロセスをこのブログで記事にしてきました。

おかげさまで、学習の主目的である自分のグズ解消には効果があったと思います。
ブログ開設の目的をほぼ達成しました。

同時に幸福否定という学説にますます興味を深めています。

しかし、自分の趣味活動メインフィールドは現在考古歴史においています。
自分に与えられた時間の有効活用という観点から、自分のメインフィールドから少し離れた心理領域の検討は一旦区切ることにします。

このブログにおける新たな記事更新は終了します。
ブログは自分自身の活動記録としてそのまま存置します。

なお、考古歴史において原始人や古代人が残した遺跡・遺構・遺物に何らかの「幸福否定」現象が発見できるにちがいないと、密かに期待していて、どのようにすれば原始・古代人の「幸福否定」の跡を発見できるか、絶えず意識しています。

原始古代の遺跡・遺構・遺物に何らかの「幸福否定」現象の跡を発見できたときには、それをテーマにして、装いを新たにしてブログを再開することにします。

皆様にはいつも閲覧していただき、さらにとても有益なコメントをいただき、心から感謝申し上げます。

風景

2017年2月23日木曜日

今後の幸福否定学習

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)の学習をこれまで次の2側面から楽しんできました。

ア 自分事(グズであるという特性を改善したいという目論見)に始発する興味

これがメインです。

幸福否定という概念、感情の演技という操作を学習実践すれば、自分のグズが解消できるのではないだろうかという期待・興味です。

自分事に関する思考と実践はこれまでのブログ記事(69編)で詳しく記録してきました。

学習・実践は結果として「グズ解消」に効果ありでした。

同時に「感情の演技」という技法の開発は原始状況であることもよくわかりました。

今後さらに学習・実践を積み重ねて、折に触れてブログ記事として記録することにします。

イ 対象物(特異・斬新・革命的に見える「幸福否定」理論・仮説)の検証に関する興味

アの副産物として生まれた興味です。

「幸福否定」という理論・仮説があまりにも革命的であり、同時に感覚的に賛同・共鳴するので、門外漢にもかかわらず、検証したくなります。

「幸福否定」や笠原敏雄氏が世の中に受け入れられていない状況が、否が応でも怖いもの見たさ的感覚を刺激します。

「幸福否定」が本当に生物進化的な本質事象であるならば、その理論によって人類史、考古歴史の解釈が大幅に変わるに違いないと直観します。

自分の趣味の一つである縄文時代や奈良平安時代の発掘情報解釈にも大いに影響を与えるにちがいありません。

この側面での興味も今後さらに学習を深め、折に触れてブログ記事を書きたいと思います。

なお、今後このブログでは笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)をテキストにした学習というスタイルから脱皮して、「幸福否定」「感情の演技」と対照できる他の理論や仮説、実践なども検討してみたいと思います。

世の中に沢山ある理論・仮説・実践から「幸福否定」「感情の演技」を観察してみることにします。

……………………………………………………………………
自分の詳細ふりかえり作業用に作成した過去記事集成pdfを参考までに公開します。

ブログ学習幸福否定記事集成(2016.06.24~2017.02.14)69記事 (3M)

サムネイルや目次リンクもついています。

2017年2月14日火曜日

幸福否定学習の中間総括

幸福否定の学習を進めてきましたが図書(笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版))を何度も読み返し(眺め直し)、また反応を利用した活動や感情の演技(もどき)活動も実践してみて、学習の全体像とか学習効果みたいな総合的な印象を持てるようになりました。

そこでその学習の印象を表にまとめてみました。

幸福否定に関する学習の中間総括

幸福否定に関する興味は、自分の趣味活動改善に効果があるのではないだろうかという期待から出発しました。

その期待は、当初想定した期待ではありませんが、「反応」の利用という点でかなり満足することができました。

一方、当初期待感を持った「感情の演技」実践・応用という点では、今一もやもやしています。

4~5か月のスパンでみれば、この学習前と比べて、自分の趣味生活は向上しました。

しかしそれが「感情の演技」由来であるかどうか判断できません。

はっきりと効果を自覚できないので、効果があったとは言えません。

なお、趣味活動改善という期待とは別に、新たに、幸福否定理論を活用すれば歴史理解の有用な道具になるに違いないという別の期待感が生まれました。

著者がいうように幸福否定という心の事象が本当に汎人類的(生物進化的)なものであるのか、社会の複雑性が増大した現代社会特有のものであるのか、よく確かめたいと楽しみにしています。


2017年2月1日水曜日

感情の演技に関する誤解が解ける

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)における感情の演技に関する次の比喩説明の理解について誤解が解けたような気がしますので、メモしておきます。

次の記述の太字部分に強い違和感を感じていました。

……………………………………………………………………
感情の演技を効果的に行なうコツについて

感情の演技を効果的に行なうには、コツがあります。

それは、感情を作るのがなるべく難しくなるような条件を設定するということです。

一般的なコツは、目標とすることをできやすくするための工夫という意味ですが、感情の演技の場合には、抵抗が起こりやすくなるように、なるべく難しい条件を選んで行なうほうが効果的なのです。

それは、感情を作ろうとする努力を通じて、幸福に対する抵抗に直面させることこそが、治療に直結するからです。

棒高跳びを例にとって説明すると、バーを低くすれば簡単に挑べますが、それでは実力は伸びません。

実力を伸ばすためには、バーを簡単には跳べない高さに設定する必要があるのです。

それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。

具体的にどのようにするかについては、次項で説明します。

実際に素直な感情を作るのは非常に難しく、わずか2分であっても、最初は集中すら難しいかもしれません。

何度か繰り返すと、集中はある程度できるようになりますが、それでも感情を作るのは難しく、先に述べたように、むりやり作ろうとすると、あくび、眠気、身体的変化という3種類の反応のどれかが出るようになります。

そうした反応を押して、むりやり感情を作る努力を重ねることが、そのまま治療につながるのです。

そこが自己暗示と全く違うところです。

感情ができなければ治療に結びつかないのではなく、感情ができなくても、感情を作る努力を重ねてゆけば、自然に好転に向かうということです。

目的は、感情を作ること自体にあるのではなく、抵抗に直面することにあるからです。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)から引用
……………………………………………………………………

1 これまで感じていた違和感

私は、スポーツ棒高跳び練習では一般に練習して低いバーを跳べるようにすると考えます。

それが跳べて初歩的な自信がつけば、もう少しバーを高くして、練習して、跳べるようにすると思います。

少しずつバーを跳ぶという実績、自信を積み重ねて、いつぞやに世界新記録まで出るようになるのだと考えています。

一方、「棒高跳びを例にとって説明すると、バーを低くすれば簡単に挑べますが、それでは実力は伸びません。実力を伸ばすためには、バーを簡単には跳べない高さに設定する必要があるのです。それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。」という方法では世界記録はおろか、進歩ができないと考えます。

このような非合理練習法はあり得ません。

そのような非合理練習法である感情の演技に疑念を持ちました。

2 解けた誤解

ふと、20代の終わり頃禁煙に成功したプロセスを思い出したとき、自分の誤解が解けました。

日に50本はタバコを吸っていたのですが、2回禁煙に失敗して、3回目に禁煙に成功しました。

禁煙3日目頃喫煙欲望が最高潮になりました。

その時、禁煙成功の喜びを味わうために、とにかく1週間だけ喫煙欲望を抑える苦しみに耐えようと考えました。

3日程苦しみに耐えるといつのまにか喫煙欲望はおさまり、結局禁煙に成功しました。

この禁煙体験の中で、禁煙成功の喜びを味わうために、とにかく喫煙欲望を抑える苦しみに耐えるプロセスがあるのですが、それが感情の演技と似ていると直観できたのです。

禁煙活動と感情の演技が同じかどうかはわかりませんが、「棒高跳び」比喩は次のように理解すべきものであることが判りました。

感情の演技を棒高跳びを例にとって説明すると、バーを簡単には跳べない高さに設定して、それが跳べそうになったら、バーをさらに高くするという跳べない苦しみを味わうというものになります。つまり実際のスポーツ練習とは異なるものになります。抵抗に直面するという苦しみプロセスそのものに治療効果があるのです。

誤解が解けた上に、感情の演技の合理性、有効性に関する認識が直観的に深まりました。

感情の演技とは意識と無意識の折り合いをつけるプロセスだと考えます。

思考と感情の折り合いをつけるプロセスだと理解してさらに学習を深めたいと思います。

風景


2017年1月12日木曜日

感情の演技の姿勢(体勢)及び感情の演技に対する疑念

1 寝床における感情の演技

2017.01.08記事「感情の演技の姿勢(体勢)について」で、自己流感情の演技は、「うれしさ」感情の作りやすさという点では立った姿勢が1番、背筋を伸ばした姿勢が2番、猫背が3番という結果になったことをメモしました。

同じことを寝床で睡眠前あるいは目覚めた直後という睡眠と密接に関係する状態で実施してみました。

ブログ記事を何らかのとりまとめ作品にした状況のうれしさを実感しようとしました。

「うれしさ」感情のつくりやすさという点ではぼんやりしていて猫背の姿勢より以下のようです。

「うれしさ」感情の演技そのものは完全な覚醒状況ではないので困難なようです。

2 寝床における思考 -なぜリアル感情をつくれないか-

さて、感情の演技が終わり、リアルなうれしさを味わえない不満が生まれますが、その不満が原因で、各種思考が始まることがいつものことです。

思考といっても半覚醒状況ですから、半分夢みたいな状況かもしれません。

恐らく意識だけでなく無意識の領域にもまたがった思考だと思います。

そのような寝床における感情の演技後の思考例をメモしておきます。

なぜリアルな「うれしさ」感情をつくれないか思考してみました。

リアルな「うれしさ」感情があるときは、必ずそれに対応したリアルな状況が存在します。

当たり前のことです。

「作業結果をまとめる」という抽象的な言葉にたいしてリアルな「うれしさ」感情をもつことなどできません。

例えば、「作業結果をまとめるプロセスが自分の能力にフィットして快適に進行する状況」を具体的にイメージできれば、リアルな「うれしさ」感情を脳裏に発生させることができます。

利用素材の整理状況、素材編集の具体的方法、編集作業に使うソフトやファイル形式…などなどについて具体的にイメージすることによってまとめ作業プロセスの「うれしさ」を感じることができます。

あるいは、「まとめた作品ファイル群をサイトに張り付けて公表し、WEBにおける検索によって多くの方々に閲覧していただける状況」を具体的にイメージできれば、リアルな「うれしさ」感情を脳裏に発生させることができます。

サイトにおける作品整理の構成、サイトのデザイン、WEB検索に対する工夫…などなどについて具体的にイメージすることによってまとめ作業が完成した暁の「うれしさ」を感じることができます。

3 自己流感情の演技は「感情の演技」(笠原敏雄発明開発)ではない

寝床における思考は、自分が「うれしさ」感情を持つためにいろいろと工夫している状況です。

つまり感情をより簡単につくれるように、演技できるようにしようとしている状況です。

一方、笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)では次のように述べていて、感情の演技といいながら、感情の発生をどこまでも拒否しています。

……………………………………………………………………
感情の演技を効果的に行なうコツについて

感情の演技を効果的に行なうには、コツがあります。

それは、感情を作るのがなるべく難しくなるような条件を設定するということです。

一般的なコツは、目標とすることをできやすくするための工夫という意味ですが、感情の演技の場合には、抵抗が起こりやすくなるように、なるべく難しい条件を選んで行なうほうが効果的なのです。

それは、感情を作ろうとする努力を通じて、幸福に対する抵抗に直面させることこそが、治療に直結するからです。

棒高跳びを例にとって説明すると、バーを低くすれば簡単に挑べますが、それでは実力は伸びません。

実力を伸ばすためには、バーを簡単には跳べない高さに設定する必要があるのです。

それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。

具体的にどのようにするかについては、次項で説明します。

実際に素直な感情を作るのは非常に難しく、わずか2分であっても、最初は集中すら難しいかもしれません。

何度か繰り返すと、集中はある程度できるようになりますが、それでも感情を作るのは難しく、先に述べたように、むりやり作ろうとすると、あくび、眠気、身体的変化という3種類の反応のどれかが出るようになります。

そうした反応を押して、むりやり感情を作る努力を重ねることが、そのまま治療につながるのです。

そこが自己暗示と全く違うところです。

感情ができなければ治療に結びつかないのではなく、感情ができなくても、感情を作る努力を重ねてゆけば、自然に好転に向かうということです。

目的は、感情を作ること自体にあるのではなく、抵抗に直面することにあるからです。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)から引用
……………………………………………………………………

自己流感情の演技は「感情の演技」(笠原敏雄発明開発)ではないことははっきりしてきました。

4 「感情の演技」(笠原敏雄発明開発)に対する疑念

「感情の演技」(笠原敏雄発明開発)に対して次のような疑念が生まれていますので、メモしておきます。

あ 「感情の演技」(笠原敏雄発明開発)を著者自身が体験しているのか?

「感情の演技」の説明文には、笠原敏雄先生自身が「感情の演技」を体験された言葉、体験に裏打ちされた言葉の存在が感じられません。

著者はクライアントの心理療法指導を行っていて、その中で療法とクライアントの心理変化の相関を「感情の演技」と表現しているだけであるという疑問です。

著者自身が自分の心を対象に「感情の演技」を実践していない。従って、その有用性を自己体験的に確かめていないという疑問をもっています。

この疑問が私の誤解や知識不足であることを願います。

い 「感情の演技」(笠原敏雄発明開発)が身近な幸福否定に対応していない

「実力を伸ばすためには、バーを簡単には跳べない高さに設定する必要があるのです。それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。」という違和感のある比喩説明から、「感情の演技」説明は身近な幸福否定(締め切りまでに仕事ができないなど)には対応していない療法であるのかもしれないと感じます。

著者は身近な幸福否定の例を沢山紹介していますから、一般人はそこに自分を投影して、それに興味をそそられます。

しかし、著者の「感情の演技」は重篤なクライアントを対象にしていて、身近な幸福否定に対して「感情の演技」が使われたことはないということかもしれません。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)という一般向け啓発書でありながら、そこで詳しく説明される「感情の演技」は重篤なクライアント向けであり、一般向けに適用されたことはこれまで無いと考えます。

このような理解が私の誤解や知識不足であることを願います。

感情の演技に対する疑念にも関わらず、幸福否定理論は説得力のある素晴らしいものであると考えます。

風景

2017年1月8日日曜日

感情の演技の姿勢(体勢)について

1 本物感情の演技と自己流感情の演技の違い

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)の感情の演技を参考に自己流の感情の演技を行っています。

「幸せを拒む病」の中で感情の演技の基本はいつまでもハードルを越えない高跳び練習にたとえられています。

つまりある感情を作ろとするけれども、その感情ができそうになると、その感情をつくることを避けて(達成感を味わいないで)、より難しい感情つくりにむかうと理解できるような方法が書かれています。
……………………………………………………………………
感情の演技を効果的に行なうコツについて

感情の演技を効果的に行なうには、コツがあります。

それは、感情を作るのがなるべく難しくなるような条件を設定するということです。

一般的なコツは、目標とすることをできやすくするための工夫という意味ですが、感情の演技の場合には、抵抗が起こりやすくなるように、なるべく難しい条件を選んで行なうほうが効果的なのです。

それは、感情を作ろうとする努力を通じて、幸福に対する抵抗に直面させることこそが、治療に直結するからです。

棒高跳びを例にとって説明すると、バーを低くすれば簡単に挑べますが、それでは実力は伸びません。

実力を伸ばすためには、バーを簡単には跳べない高さに設定する必要があるのです。

それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。

具体的にどのようにするかについては、次項で説明します。

実際に素直な感情を作るのは非常に難しく、わずか2分であっても、最初は集中すら難しいかもしれません。

何度か繰り返すと、集中はある程度できるようになりますが、それでも感情を作るのは難しく、先に述べたように、むりやり作ろうとすると、あくび、眠気、身体的変化という3種類の反応のどれかが出るようになります。

そうした反応を押して、むりやり感情を作る努力を重ねることが、そのまま治療につながるのです。

そこが自己暗示と全く違うところです。

感情ができなければ治療に結びつかないのではなく、感情ができなくても、感情を作る努力を重ねてゆけば、自然に好転に向かうということです。

目的は、感情を作ること自体にあるのではなく、抵抗に直面することにあるからです。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)から引用
……………………………………………………………………

その記述が正しければ、練習法として合理性を欠くような印象を持っています。

その記述が正しければ、自分が行った自己流感情の演技は本物でないことは確実です。

その記述が正しければ、そしてその非合理性の正しさを証明する(説得する)より詳しい説明がなければ、世の中のほとんどの人がそれを受け入れることはできないと思います。

願わくば、その記述に勘違いや不十分さがあり、あるいは比喩の仕方が間違っていたり、不十分さがあってほしいものです。

「目的は、感情を作ること自体にあるのではなく、抵抗に直面することにあるからです。」が結論になることは十分理解しているつもりです。

しかし、そのプロセスにおいて(練習法として)「困難にめげず感情つくりに努力して、最後にその感情のいくばくかでもつくることができた」という達成感が必要である(存在するに違いない)と素人考えします。

さて、自己流感情の演技では例えば「趣味活動のまとめ」という領域に幸福否定現象が存在していると考え、その領域における「うれしさ」感情を味わうことを行っています。

いろいろと反応が生まれ、感情をつくることは一筋縄ではいかないのですが、「うれしさ」を味わうことができれば、それをできるだけ深く味わうようにしています。

2 自己流感情の演技における姿勢(体勢)

自己流感情の演技において姿勢(体勢)が重要な要素であるので、メモしておきます。

パソコンのある机に向かって椅子に座って感情の演技を行うことが多いのですが、いつものキーボードを操作するような姿勢(肩が少し落ちて猫背になっている姿勢)と背筋を伸ばして顎を引き胸を開いた姿勢と立った姿勢(注)と寝床の中の4つで感情つくりを試してみました。

注)ブログ「花見川流域を歩く 番外編」2016.07.02記事「スタンディングデスクもどきによる立作業」参照

このうち寝床の中を除く3つの姿勢について比較します。

「うれしさ」感情の作りやすさという点では立った姿勢が1番、背筋を伸ばした姿勢が2番、猫背が3番という結果になりました。

「うれしさ」感情をつくるという行為で姿勢(体勢)が大いに影響しています。

これをどう捉えるか?

「うれしさ」感情が相対的に簡単にできるということは、反応が少ないのだから、抵抗に直面していないのだから、意義が少ないと捉えるのか?(A)

反対に、無暗な抵抗を体が排して「うれしさ」感情を味わったのだから、一つの前進体験であり、生活に好影響をもたらすものであるのか?(B)

私は、自分のケースでは、Bの考えを大切にしたいと考えます。

自分のケースに関して言えば、Aは苦しめば苦しむほど価値があるというような発想になってしまい、とても自分の思考としては許容できません。

寝床の中の感情の演技は別に考察します。

風景







2017年1月6日金曜日

再論 自分事幸福否定と興味対象物幸福否定

年が明け、新鮮な気分になっています。

そのような新鮮な気分の中で、今年も幸福否定の学習を継続したいと考えています。

2016.10.30記事「自分事としての幸福否定と興味対象物としての幸福否定」で幸福否定に対する興味を2側面から持ったことをメモしました。

この記事では今年の学習を上記記事と同じく次の2側面から行うことを再確認します。

1 自分事幸福否定

自分の趣味生活向上(生産性向上等)のために感情の演技を活用しようという興味です。

昨年秋から暮れにかけて自己流になりますが感情の演技を実践して効果があったという手ごたえを感じています。

「うれしさ」という感情を実感することがとりわけ大切であると実感するようになっています。

同時に、例えば記憶の一時的消去とか回復がいつもの自分(という意識)以外がコントロールしているらしいということも「うすうす」ですが実感しています。

そのようなことを考えるということは、新たな拡大された自分(という意識)になりますから、否が応でも自分自身に興味が湧きます。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版)学習の成果だと感じています。

自分事幸福否定現象の改善取り組みを継続していきたいと考えています。

そのプロセスをできるだけ記事に書きたいと考えます。

2 興味対象物幸福否定

物質文明が発展した現代情報化社会以前の幸福否定現象がどのような様相であったのか、興味が湧きます。

おそらく原始社会、古代社会における幸福否定現象と現代社会における幸福否定現象の様相は根本的に異なるに違いないと考えます。

その違いがどのようなものであるのか知りたいです。

そのような興味を深めるためには、まず現代社会における幸福否定現象がどのような様相であるのか、詳しく知る必要があります。

これまでの学習は自分事幸福否定中心でしたけれども、それとは別建てで興味対象物としての幸福否定学習も始めたいと考えています。

風景



2016年12月20日火曜日

目的を手段化することにより取り組みやすくなる

観念的、思い付き的感想ですから、後で役立つメモとなるか、スカとなるかは不明ですが、とりあえずメモしておきます。

生活で各種大小の目的(したいこと)が生まれます。

その目的(したいこと)の前に幸福否定現象が立ちはだかり、自分の能力の無さ、意気地なさなどを思い知らされます。

このような時、その目的(したいこと)が実はより高次の目的達成のための手段、道具であると認識すると、その高次の目的達成に対して幸福否定現象が立ちはだかるように変化するようになるのではないだろうかという仮説です。

高次の目的を達成するための一つの手段、道具になり下がった最初の目的は、自分にとっての意義が減少し、幸福否定現象の発生が弱まるような気がします。

つまり、幸福否定現象を見かけ上回避するために策として、幸福否定現象に悩む目的(したいこと)を手段化、道具化するような高次の目的を構築すればよいということになります。

一般例で考えると例えば次のような状況を想定することができます。

1 目的が手段化、道具化していない場合

職業や生活上で、ある重要レポートを作成する状況になった時を想定します。

そのレポート作成が社会的に見て、自分にとって大切であり、当面乗り越えるべき課題であると考える事になったとします。

一方、その期限は先であり、他にも取り組むべき作業・業務は沢山ありますから、そのレポート作成になかなか手が付きません。

仮に時間がうまれても、そのレポート作成をする気になりません。(幸福否定現象発生です。)

そうこうしているうちに締め切り直前になり、前日徹夜でレポートを仕上げることになります。

仮に、レポートの質が合格点に達したとしても、最良のものに仕上げることは困難です。

2 目的を手段化、道具化した場合

重要レポート作成を次のような「真の目的」「高次の目的」達成の手段であると考えたとします。

例1 中長期的な観点から自分の地位向上(立身出世)を目的と考え、重要レポート作成をそのための能力誇示の一例として組織に示す。

例2 属する組織とは別に自分が独自に(密かに)行う個人研究の一環にその重要レポート作成を位置づける。

例3 …

要するに、自分の目的、興味、したいことは地位向上であり、あるいは独自研究であり、あるいは…であった時、重要レポート作成はそれらのより大切な目的の下に隠れてしまいます。

重要レポート作成に自分の意識焦点が全面的に当たらない状況が生まれます。

そのような状況では、重要レポート作成は順調に進む場合が普通ではないかと考えます。

したいけれどもできない状況が発生し、悶々と苦しむような状況は発生しないと考えます。

なお、「真の目的」「高次の目的」である地位向上とか独自研究とか…とかはその領域で形を変えて幸福否定現象が発生することになるのだと考えます。

風景


2016年12月18日日曜日

感情の演技記事に関する感想

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)の中の「感情の演技」説明を参考に、自分なりに感情の演技あるいはそれに類似する活動を実践してみて、次の記事で報告しました。

2016.12.14記事「抵抗と感情の演技を活用して得た活動改善の萌芽 上
2016.12.15記事「抵抗と感情の演技を活用して得た活動改善の萌芽 下

この記事を書いた前後に次のような感想をもちましたので、メモしておきます。

1 コンテンツとしての「感情の演技」記述情報しか学習できていない

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)及びそれ以外の専門書(Kindle版笠原敏雄著「幸福否定の構造」など)を含めて「感情の演技」記述は、コンテンツとして書かれています。

著者が自分自身を対象に「感情の演技」を実践して、その様子や結果を記述したものは一切ありません。

あるいは「感情の演技」を実践したクライアントが直接語った体験的な様子や結果は一切ありません。

学習できたのは、著者の研究結果としての「感情の演技」であり、コンテンツとしてまとめられたものです。

研究対象としての「幸福否定」「感情の演技」ではなく、著者自身の実践の様子が是非とも知りたいところです。

著者の心理療法指導の実践ではなく、著者自身の生活における「感情の演技」の様子を知りたいところです。

「感情の演技」でご自身の生活改善がどのように進んでいるのか知りたいと思う気持ちが生まれます。

あるいは著者以外の人が直接記述する「感情の演技」体験や結果を知りたいところです。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)を読んだ人はおそらく大半の人がそのような感想を持つと思います。

「幸福否定」理論や「感情の演技」が科学の在り方を変えるような原理的意義を有していると考えるだけに、コンテンツを知るだけでは物足りません。

なお、もし機会があれば、笠原敏雄先生に、先生自身が「締め切り間際にならないと仕事のエンジンがかからない」という幸福否定現象を感情の演技でどのように克服できたのか、その様子を聞きたいと思っています。

2 自分の心の内部をさらけ出すことに対する違和感

感情の演技を実践するということは心の弱点を知り、その弱点を補強するということです。

自分の肉体や健康、あるいは知性(知識、思考能力等)について、自分の弱点を知り、それを補強する様子を情報発信することを想像すると、それにはある限界があると考えます。

社会で生活していく上で、肉体、健康、知性における自らの弱点を無制限に記述することには危険が伴うように感じます。

心の弱点を自ら暴露することには、肉体、健康、知性以上に危険が伴うような印象を持ちます。

今回のブログ記事内容は趣味活動における幸福否定現象と感情の演技であり、「実生活」(職業とか家庭とかの生活)から離れたテーマであるので、思い切って記事にしました。

しかし「実生活」に関連したテーマになると、仮に秘匿したいような特段の問題が無いにしても、それを記述してブログ記事にすることははばかります。

幸福否定現象とか感情の演技について「実生活」に関連したテーマで記事を書くことはプライバシー保持の観点から困難であると感じました。

この感想は、1における直接情報(非コンテンツ情報)欠如と通底しているものと考えます。

風景



2016年12月16日金曜日

感情の演技を効果的に行なうコツについて

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)の中に「感情の演技を効果的に行なうコツについて」という小見出しの文章があります。

そこには感情の演技を行うコツとして次のような記述があり、走高跳び選手の練習のようにいつまでたっても跳べない高さの練習をする必要性が書かれています。

……………………………………………………………………
感情の演技を効果的に行なうコツについて

感情の演技を効果的に行なうには、コツがあります。

それは、感情を作るのがなるべく難しくなるような条件を設定するということです。

一般的なコツは、目標とすることをできやすくするための工夫という意味ですが、感情の演技の場合には、抵抗が起こりやすくなるように、なるべく難しい条件を選んで行なうほうが効果的なのです。

それは、感情を作ろうとする努力を通じて、幸福に対する抵抗に直面させることこそが、治療に直結するからです。

棒高跳びを例にとって説明すると、バーを低くすれば簡単に挑べますが、それでは実力は伸びません。

実力を伸ばすためには、バーを簡単には跳べない高さに設定する必要があるのです。

それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。

具体的にどのようにするかについては、次項で説明します。

実際に素直な感情を作るのは非常に難しく、わずか2分であっても、最初は集中すら難しいかもしれません。

何度か繰り返すと、集中はある程度できるようになりますが、それでも感情を作るのは難しく、先に述べたように、むりやり作ろうとすると、あくび、眠気、身体的変化という3種類の反応のどれかが出るようになります。

そうした反応を押して、むりやり感情を作る努力を重ねることが、そのまま治療につながるのです。

そこが自己暗示と全く違うところです。

感情ができなければ治療に結びつかないのではなく、感情ができなくても、感情を作る努力を重ねてゆけば、自然に好転に向かうということです。

目的は、感情を作ること自体にあるのではなく、抵抗に直面することにあるからです。

笠原敏雄著「幸せを拒む病」(フォレスト出版、2016.06)から引用
……………………………………………………………………

感情の演技を実践してみて(2016.12.15記事「抵抗と感情の演技を活用して得た活動改善の萌芽 下」この記述には違和感を感じます。

著者の勘違いが混入しているようにおもいますので、メモしておきます。

著者の勘違いではなく、もし自分の認識力の虚弱性ならば、それが判ればそれで大変うれしいことです。

著者は棒高跳びの例で「実力を伸ばすためには、バーを簡単には跳べない高さに設定する必要があるのです。それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。」としています。

揚げ足取り的ですが、「簡単には跳べない高さを設定して、それが跳べそうになったら、バーをさらに高くします。」はあり得ないと考えます。絶対にありません。

世界の全ての競技者が「簡単には跳べない高さを設定して、それが跳べたら、バーををさらに高くする」のです。

まだ1回も跳べないのに、それよりバーの高さをどんどん上げるという練習法があるとは聞いたことがありません。

肉体にしても、知性にしても、心にしても合理性を欠く練習法です。

私は、感情の演技を実践してみて、うれしさの感情を味わうことが極めて重要であると実感しました。

著者が説明する感情の演技では、感情そのものを味わうことなく、やみくもにその感情を味わう努力だけするという記述が、どこか「変」です。

著者が指導している感情の演技では、被験者は実際は、感情を味わうレベルが一歩一歩積み重なっているに違いありません。

感情を味わうその味が濃くなっていると想像します。

感情を味わうことなく、感情を味わう努力だけが必要だという記述にはどこか勘違いがあるに違いないと直観します。

風景